気がつくとそれはまるで後日談のような文章を書いてしまっていて「〈創作〉おいおいおい」は後が続かなくなってしまった。ということで一応いったん終了ということにさせてもらいます。そのうちネタが現れたらまた同じタイトルで書くかもしれませんが。
こないだの土日を使って妻のねえさんの新しい家に新築祝いということでお邪魔してきた。むかしむかし粕壁宿という宿場だった所。今は春日部と書き方を変えてはいるのだが、粕壁という地名はしっかり残っていてちょっとコーフン。なぜか歴史的香りが漂ってくるとわけもなくコーフンしてしまうたちなのだ。義姉の家はその粕壁三丁目の隣りのとっても閑静な町。三軒ほど奥に入るとそこには川が流れていたりなんかして趣きも充分。だがしかしその川面が大丈夫かよってぐらい目の前で、大水になったら怖いなあ。
駅があり、当然線路があり、むかしの粕壁の町並み〈商店街〉があり、そして川。てな立地なもんでそれ以上町がでかくなることがきず、線路の向こう側にオフィス街が広がっている。であるからして川と線路に挟まれた粕壁近辺は自然と静かな町になったのですね。そんな所に住める義姉夫婦あんど27才の息子は、うん、前世でとてもよいことをしたんだろうなあ。
でもね、別にうらやましくないのさ。いや、嫌みじゃなくてね。そんな町で天井の高い和風混ぜ洋風新居に住める家族はそれはそれは幸福には違いないし、ええなあ、とは確かに思うんだけどね、でも自分がそうなりたいとは思うわない。思わないんだなあ、これが。自分の城願望というのがない。これまでずっと借家〈含むアパート〉をしてきたけれどそれぞれにいい所だったなあ、と思えるし。
例えば大きな会社に勤めてそうな自分より若そうな(三十代後半ぐらいの)お客を夜乗せて、その方が建てたに相違ない新らし目な家の前で降ろしてもね、ぜんぜんうらやましくない。逆に、大変そうだなあとか思ってしまう。この家がこの人の人生なんだろうなあ、とか思っちまう。その人が住んでる家、というよりも、その家に住んでる人、と思ってしまう。その人が家に入っていく姿を見るとまるで、その家に吸収されていくように見えてしまう。朝家を出る時、チューブから搾り出されるようにその人はブニューって出てくる。心なしか悲しそうな目つきで。
例えば、ガタピシ言う借家の引き戸をコンチクショウが!とか蹴っ飛ばしながら出てくる、そんで蹴っ飛ばした拍子に家がぶっ壊れて、ああ、しょーがねえな!とか言いつつ、けっ!とか出かけてしまう、そんな人生のほうにあこがれてしまうんだなあ。ダメだなあ。きっとダメなんだろうなあ、こんな俺。
あ、そう言えばね、春日部の義姉の家のお向かいさんの表札が「野原」だった。春日部の野原さん。ちょっとコーフンした。歴史とはまったく関係ないけどコーフンした。家の人出てこないかなあって。