「次は隣りで血圧です。そちらにかけてお待ちください」
そう言って白衣の男が指差した青い布張りの椅子に腰掛け、何気にマークシート方式になっている健康診断の記入用紙を眺めていた。「がん」という欄に「1」と記入してある。家族の病歴を記す欄である。以前の健診で自分が埋めた欄がコンピュータで継続記入されている。
そう言えばそうだったんだ、と思う。ついこのあいだまで、俺の父親はガンで死んだ人だったんだ。
思わず苦笑いが漏れた。これももう違うんだ。そっか、俺の身内にはガンで死んだ人間はいない。いなくなった。「1」と、そこだけ濃いインクで記された数字が何やら悲しげに目に映る。そう、これは俺とは関係ない人の数字なんだ。よその数字。
70を越してもいまだに旅館に雇われて働いている母親。実の父親だと名乗り出たじいさんは79。急に俺の寿命は延びちまったようだ。
誰もがそうであるように自分の父親だと信じて疑わなかったオヤジ。49で死んだオヤジがのそのそと部屋の隅にでも居場所を変えたような気配を感じる。
なんだよ。そんな隅っこに……。
しかしそんな言葉も通じそうにない。俺の苦笑いが真実を映し出している。違う人なんだな。もうすっかり、俺の父親じゃないんだな。
「次の方、どうぞ」
白衣の女性が呼んだ。
「あ、はい……」
立ち上がった瞬間、1という数字も、すねたようなオヤジの気配もどこかに消え去った。