「君はおとうさんは死んだと思ってるんだろうけど、実は生きてるんだよ。79歳でまだ元気なんだよ」
そう言われた時に思い出したのは、自分の父親だと信じていた人の葬儀をしている最中の家屋敷の遠景だった。頭の中にその場面が大きく浮かび上がりぐるぐる回った。
父親と大人の会話ってやつがしたい、そんな不可能なことを願う気持ちが時々微熱でも発したように浮かび上がることがある。もしかして実現するのだろうか、そんなバカげた思いもよぎった。しかしやはりバカげている。あれは現実だったのだ。おやじは十才の時に死んだ。夢なんかじゃなかった。母親の膝でウソ泣きしたのも、そしたら涙が苦もなく流れてきたのも、黒い花輪が並んだあの家を遠くから眺めたのも現実だったのだ。
「一体なに言ってるんですか?」
「おかあさんに訊いてもらえばわかるんだけどね」
「母は訊いても何も言わないと思いますよ」
「そうかもしれないね」
「今の今まで黙っていたことを言うような母じゃないですから」
「おとうさんとはきっと近いうちに会えると思う」
「会うって……。じゃあ、あの葬式はいったい何だったんですか? 狂言だったとでも言うんですか?」
「その人じゃないんだ、君の本当のおとうさんは」
答えを聞くのは恐ろしかったが、聞かざるを得ないことだった。
「だったらその父親ってのはどこの誰なんです?」
「それは、実はぼくなんだけどね」
間の抜けた、あまりにあっさりとした答えに俺は怒りを感じた。その間のなさが、吐き出された言葉が、あまりに無神経だったからだ。しかしその無神経さはどこかで見たような無神経さだった。俺だ。俺の中にある、日常のやり取りの中で無意識に放出させてしまっている自分の無神経さだ。妻やトモイチをこれまで何度も不愉快にさせているあれだ。臆面もなく、というやつ。このじいさんは、もしかしたら電話の向こうで笑みを浮かべているかもしれない。
「ふざけてる……」
思わず口に出た言葉だったが、俺は傷ついた。自分自身に対して無神経な言葉だった。そんな言葉を吐かせる男に腹が立った。しかしそんな俺の苛立ちには気づかず、じいさんはどこか嬉しげに話し始めた。
「生まれたばかりのあんたを車に乗せて仕事してたんだよ。イタチ製作所の事務員なんかにもかわいいかわいい言われてずいぶんかわいがられてたんだよ、あんたは。もちろん覚えてないんだろうけどさ」
俺は自分の脳みその動きに自分で苛立った。じいさんが嬉しそうに話した言葉に脳みそが自動で反応し始めたからだった。脳みそは、自分の性格の一番根っこにあるものを、今の言葉に合致させ始めていたのだ。
俺は愛されることに鈍感だ。暖かい感情が自分に注がれるのを当たり前だと体の奥底で信じている。20代の頃までは、イヤなやつ、などと言われても自分に対する関心の現れだと思ったりしたぐらいだ。重症なのだ。そんな性格の根底にある歴史を目の当たりにさせられている――俺の脳みそはそんなふうに反応していた。いや、関係ない!俺は母親に愛されていたんだ。そんな反発が同時に発生する。
「事情が事情であんたのお母さんとは別れなくちゃならなかったんだけどさ、それまでは日中、昼間はずっとぼくが面倒みてたんだよ。今の今まで、一日たりとも君のことを思い出さない日はなかったんだよ」
その事情というやつをどうして聞き出さなかったのかと、そのことが悔やまれるけれた。しかし俺は頭に血を上らせていた。頭に血を上らせて否定することに躍起になっていたのだ。自分の名を名乗りもしない、おそらくは入れ歯だからだろう、言葉の切れが悪いふがふが話すじいさんを自分の父親だと、そんなたわけた話は受け入れられない。しかし口をつく言葉はどんどんつまらなくなっていった。
「なんで今さらそんなこと言うんですか」
「別に今さらじゃないんだけどね」
「ジョーダンじゃねえよ」
まったく……イラつけばイラつくほど自分を痛めつけるような言葉しか出てこない。
「名前は? あなたの名前をまだ伺ってないんですけどね」
二三年に一度、なぜか電話をかけてくる、母親のかつての知人という頭しかなかったので、これまで一度くらい聞いたことがあるんだろうが、じいさんの名前を俺はまったく覚えていなかった。なんだ覚えてくれてないのかい、という気分がじいさんにあるであろうことは重々察せられたが、数年ぶりの突然の電話でぶしつけなことを言い出すじじいに対して俺は高飛車だった。
「自分の名前も名乗りもせずにしゃべってていい話題だとは思えないんですけどね」
「スズキです」
急にふたたび淡白になった口調に、また無神経さを感じた。本当にこいつは、このじいさんは俺の父親なのかもしれない、そう思った。そのぐらい、どこか懐かしくなるような無神経さだったのだ。まるで自分と向き合っているようだ。
「いつか会える時が来ると思っているから、その時はいろいろ話そう」
「そんな日は来ないと思いますけどね。じゃあ、そういうことで」
やたらといろんなことをべらべらずらずら並べ立てられていると思った電話だったが、じっくり思い返してみると、それほど多くのことがしゃべられたわけじゃなかった。自分の頭がぐるぐる回っていただけだったのだ。こうしてあの電話を思い返すと、どれだけのことが自分の頭に去来していたのか再確認する思いではある。
あの電話から一ヶ月が過ぎた。そして今、俺は自分の中から何かが消えたのを感じている。それはきっと、父親を求める気持ち、とでもいうようなものだ。