俺はイヤなガキだった。本当にイヤなガキだった。
週に一回だけ帰ってくる父親。その男から夕方、母親に電話がかかってくる。電話を変わってもらう。
「おみやげはぁ!?」
「ああ、わかってるわかってる!」
しかし帰ってきた父親の手にはケーキしかない。俺にとっては食べればなくなるケーキなど「おみやげ」のうちには入らない。その手には野球盤とかゲームとかがないとダメなのだ。
たぶんその日もケーキがお土産だったのだと思う。俺はぐずぐずとすね続けていた。父親の目をまともに見ようともせずに、ただひたすら、あーあ、ケーキかあ、ケーキかあ、という調子。するといきなりテーブルの下から伸びてきたものがあった。父親の足だった。蹴られたのだ。
実は、これが俺の頭に残っている父親――山本博の唯一の生々しい記憶だ。あとは断片的に声や匂いなどを覚えているぐらいだ。ある日突然犬を連れてきたこと。子犬にはでかすぎる犬小屋を部下に作らせていたこと。左利きのグローブを買ってきてくれたこと。右利きよりは左利きのほうが重宝されるんだぞ、というようなことを言われたこと。どれも記憶としては残っているが、映像として残っているのは蹴られた時のことだけだ。唯一の思い出。中学、高校といろんな意識が芽生えてこればそれなりにいろんな話題を話したりできたのかもしれない。しかし小学四年の三学期に入ってすぐの頃、父親は鬼籍の人となった。蹴られたという思い出だけを残して。
おみやげを買ってきてくれる人、という役割は父親の死後、母親に受け継がれた。父親ほどの収入を得られないのはわかっていたからさすがにそうたびたび何かを買ってもらえるとは思ってはいなかったが、特別に何かが欲しくなるとそれをすかさず口に出した。ファーストミット、バット、ヘルメットといった野球用具をどうしても必要なものとして母親に申告した。すぐに買ってやるとためにならない、そんな考えもあったようで即座に買ってくるということはしなかったが、母親は一週間から一ヶ月以内にはそれらを俺に与えた。
この家で唯一の男なのだから、そんな言葉も聞いたように思うけれど、母親が俺に何よりも求めたのは成績を上げることだった。そのために中学二年では家庭教師もつけられた。その頃には母親は自分で店をやっており、週二回、俺に家庭教師をつけられるほどの収入を得ていた。
その他に母親が俺に求めたのは見てくれだったかもしれない。野球部に入りたい、そのためには頭を刈らなければならない、と言った俺に母親の言った言葉はこうだった。
「その頭で?やめときなさい」
俺の頭はいびつだ。いわゆる、絶壁。しかも左側が目に見えてへこんでいる。
「その頭で坊主刈りはやめなさい」
イヤなガキには根性も意地もなかった。
「そうだよね、やめとく」
野球部などに入れば厳しい練習が待ちかまえている。心のどこかにそんな部活動に飛び込んでいくことに臆する気持ちが潜んでいた。母親の、今にして思えば子供を阻害する言葉に俺はここぞと飛びついたのだ。
父性というものと無縁なガキの人生はそして、5才も年下の友人にそれを見つけるまでどんどん続いていった。「イヤなガキ」から「目つきの悪い青年」へとその姿を変えながら。