公園の片隅で | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 大通りから道路3本奥まったところにその町の商店街がある。町自体は決して新興地ではない。が、広めにとった歩道、まだまったいらなアスファルト、それぞれの店の色鮮やかな真新しい塗装、けっこうユーガにたたずむ商店街である。そんな町にはたいがい広めな公園がある。そしてそんな公園にはたいがい水洗設備の整ったわりかしきれいな公衆トイレがある。この町の場合も例外ではなく、俺が今まさにひきつらんばかりに必要としている公衆トイレがあった。
 あった。
 あったあ!
 営業車に鍵をかけるのももどかしく、アンモニア臭きわめて抑え気味のその素敵なトイレに、俺はズリズリ駆けこんだ。放水!である。ウオッ! ときたもんだ。セメントの天井を這う完璧な安堵のため息。そこで声がした。
 「なーにでかいため息ついてんねん」
 大阪弁だろうその声は〈大〉のほうの部屋からだった。むろん聞き覚えのない声だ。ほとんど知らん町の公園の公衆便所に潜んでいて突然俺を驚かそうなんて、そんなヒマ人は俺の知人にはいない。ヒマな人間は少なくないが少なくともこんなヒマ人はいない。だいたいにして、ヒマな人間とヒマ人とはイコールではないのだ。
 ヒマな人間とは、そう、例えば「窓際族」って奴だ。たっぷり時間はあるんだがもてあましてる奴。それに対しヒマ人は、昼間ギッチリ働いて家に帰ると、そうよなあ、例えばフライフィッシングの疑似餌づくりなんぞに没頭してる奴。そんで出来上がった疑似餌を職場で見せびらかして女性の同僚から「よっぽどヒマなのよね」なんて言われちまったりする。そんな奴。その時、同僚の女も<ヒマ人>と<ヒマな人>の違いをわかってなかったりするんだが、まあそこんところは置いとくとして、えてしてこの手はついつい根をつめすぎて寝る時間が足りなくなったりする。てえことは、ヒマ人ヒマなし――なんて言葉も成立するってわけだ。
 さらにはそれ以前に、だ。ヒマ人は「閑人」なんぞと書いたりもするぐらいで、根本からが違うんである。
 てなことはともかく……
 ふむ……。
 みょうちくりんなこの大阪弁に返事すべきか否か、俺は半秒ほど考え、結局ムシすることにした。そう決めるとたった半秒でさえ悩んだ自分が悔やまれた。だいたいにして、普通こんな声に返事などしない。
 と――大の部屋の男がまた声をかけてきた。
 「どうしたんだよ、ん?」
 べつにどうもしない。もちろん返事もしない。しかしだ。それにしてもこの〈大の部屋〉の男、よほどのアホなのか、こういうコミュニケーションに慣れてるのか。もし声をかけた相手が怒り出したりしたら、とか考えないんだろうか。それとも、もしそんなことになってもやられないだけの自信があるからこんなことをしてるんだろうか。ついこんなことを考えちまうってのもまたシャクに触るが、考えちまうもんはしょうがない。だって、もし俺がチョー短気なチンピラだったりしたらどうするんだろう。へたすりゃ命にかかわるかもしれないじゃないか。いや、最近のテレビなど見ているとチンピラなんかよりもっと恐ろしい奴らがいる。それも合法的にそこらへんにうじゃうじゃと。中学生だ。俺がもし最近の、それも思いっきり陰険な中学生だったりしら、それも仲間がそばにたくさんいたりしたら……。おお、はぶまーしー。俺はただの肉塊にはなりたくない。俺なら絶対こんなことはしない。
 でも〈大の部屋の男〉は俺に声をかけてきた。で、俺はそこらのチンピラでもなけりゃ、中学生でもない。ただの〈ウンちゃん〉だ。てなことをとりとめもなく考えているうちに放尿分の水分は尽きてきた。さあさあ……。俺は自分の可愛い象さんをズボンにしまいこみ、手洗いの水道をひねり……そこでまた中の男が言った。
 「なんだよ、ムシかよ!」
 語気が荒くなっている。俺はほんのすこうしムッとした。妙なコミュニケーションを吹っかけてきて勝手にいらついてんじゃねえ。
 かまってたってしょうがない。俺はセメントの小さな建物から出ようと歩き出した。今日は土曜でとことん暇だから一刻も早く駅へ戻り並ばねばならないのだ。たとえほとんどの客がワンメーターだろうが、0よりはマシだ。しかし……
 「なあ、頼むからよう、助けてくんねえかなあ……」
 頼む? 助ける? わけがわからん。が、助けてと言われちゃあ放っちゃおけない。俺だって一人の、一応は一個ばかりは心を持った人間なのだ。しかしだ。こやつが手のつけようのないほどのヒマ人だったりしたら……。どんな暇つぶしに付き合わされるかわかったもんじゃない。お笑い種にもならないような、仕掛けたほうだけが喜ぶ暇つぶし。
 とりあえず俺はひとつの態度をとることにした。声に反応して一応は立ち止まったことを伝えるんである。
 俺はズリズリと足を引きずり、フウーッ……、さっきよりも大きなため息をついた。これで俺が、一応は「助けてくんねえかなあ」って言葉が気にかかったことが伝わるってもんだ。だが、「大の部屋の男」は何を言ってくるでもなかった。まさかな、と俺は思った。自分が外の人間を引き止めちまったことに今さらビビッてんんでもなかろうな。もしかして、それとも安堵してるのか? 俺がとどまってやったから。

 「大丈夫か……」

 俺の声だった。心にもない思いがにじんでいる。

 昔はこんな男じゃなかったはずだ。後部座席に向かってヘラヘラしているうちに、いつのまにやらこんな声の出せる男になっちまったのだ。あーあ。

 中からの反応はなかなか返ってこなかった。やっぱ行っちまうか……?一瞬そう思った。でも何かがそうさせない。俺も一応は人間なのだ。

 「おい……」

 また心配げに〈外の男〉、俺が言う。しかしちょっと苛立ちが混じっちまった。まったく人間らしい。誰か他の人間と入れ替わってもまったく問題ない。かわいくって涙が出てきそうだ。でも誰も俺とは変わっちゃくれない。入れ替わってくれる奴なんていない。それでいいんだが。

 「だあれも助けちゃくれねえんだ……」

 優しげな声を発する男じゃないほうの男の声だ。すっかり泣きが入ってる。いい兆候だ。こんなんにかまっちゃいられない。俺にそう思わせてくれるからだ。立ち去る気分にさせてくれるからだ。しかもその言葉の表してる所がいい。自分の正体をばらしてるようなもんじゃねえか。

 俺は決め付けた。こいつあホームレスだ。さあ、とっとと仕事に戻ろう。だが、やっぱり俺は立ち去れなかった。自分を省みちまったからだ。そういう男なのだ。つまらんところで自分を省みちまう男なのだ、俺ってやつは。この場合、いま俺はこう思ったんである。相手はホームレスらしい。だから? だったらてめえは一体なんなんだ? 俺は何だ? ただの〈ウンちゃん〉じゃねえか。

 しかしだ、俺は誰かに泣きついたことなんてない。泣きたくなったことぐらいいくらだってあるし、実際だあれもいない部屋で泣いちまったことだってある。でも、誰かに泣きついたことなんてない。でも、やっぱり立ち去れなかった。

 「甘ったれんな……。ったくよう……」

 返答はなかった。自分の口から出た言葉はそのまま俺に返ってきた。甘ったれなよな。またため息だ。なんでいちいち自分に返すんだ、俺は。

 潮時だった。俺は足をズルズル引きずり車へ戻ろうときびすを返した。

 「アーーーーーーッ!!!」

 はぁーー? なんなんだ、一体……?

 しかし俺は去らなかった。ヤベエ、ととっさに思ったのだ。このまま立ち去るわけにはいかない。この叫び声から想像されるようなことがあの中で起こっていたとしたら、もしそんなことになってたら、あとからどんな疑いをかけられるか知れたもんじゃないのだ。
 周囲を俺は見渡した。イヌの散歩のお姉ちゃんとジャージ姿のじいさん。あの声にはまったく気づかなかったらしい、それとも聞こえないふりをしてるのか、何事もなかった顔で自分らの予定を遂行している。だったらそれきりにしてりゃいいようなもんだが、やはり俺は便所へ戻った。一応は人間なのだ。真っ当な神経や心を持った、誰と入れ替わってもそうたいした変わりのない。
 しかしこんな経験は初めてなので、何をどう言ったもんやらである。何も言わず、俺はドアを叩いた。ドアはロックされていなかった。ゆっくり、内側に開いた。安堵とも驚きともつかないため息を、俺はついた。おいおいおい、である。俺は一体何をしてたんだろう。わざわざこんなふうに自分の声を聞くなんて。
 いい加減にしないとな。