続「デヴィッド・ボウイ 私論」 | 私とあなたが知っている音楽の事。

私とあなたが知っている音楽の事。

趣味の音楽や映画、日々の出来事をつらつらと書き連ねていきます。

前回からの続きで、、、

 

 

 

1980年に「スケアリー・モンスターズ」をリリース後

 

デビッド・ボウイは古巣RCAを離れ

 

1982年に高額な契約金と共にEMIと契約。

 

 

 

翌年の1983年に「レッツ・ダンス」をリリース。

 

 

ここがリアル・タイムの方は

 

これこそが「デヴィッド・ボウイ」でしょう。

 

 

 

しかし、それ以前からのボウイ・ファン、ロック・ファンからは

 

こっぴどく叩かれました。

 

 

 

ま、そりゃそうです。

 

稀代のカルト・スターが

 

一躍、大ポップ・スターになってしまったのですから。

 

 

 

キュアーのロバート・スミスは当時

 

「ボウイなんて『ロウ』を作った後に車に轢かれて死んじまえばよかった」と発言。

 

 

 

ここでちょっと話をそらします、、、

 

 

 

実はこのロバスミ発言もかなり興味深くて

 

「ロウ」リリースの77年ってイギリスはパンクの嵐が吹き荒れてた頃。

 

当時の若者はそれまでのオールド・ウェイブ・ロックを

 

カビ臭くてダサい物として、完全に否定していた時代。

 

そんな中、デビッド・ボウイだけは若者のリスペクトを一身に集めてた。

 

先程のロバート・スミスの発言もそれを裏付けるものだし

 

例えばニュー・オーダーが「荒涼とした風景を音像にしたかの様なインスト曲」をアルバムに収録するのも

 

完全に「ロウ」の影響なんですよね。

 

ちなみにニュー・オーダーの前身、ジョイ・ディヴィジョンの初期のバンド名は「WARSAW」

 

ってこんな話は皆さんご存知の通りで…。

 

 

 

話を戻します。

 

 

 

私も嫌いでした。

 

「金髪パーマのデヴィッド・ボウイ」

 

何がやりたいかさっぱり理解できなかった…。

 

 

 

しかし、固定ロック・ファンと

 

新規ポップ・ファンのクロスフェードな

 

ヴィヴィッドな肌触りだけは

 

いまだに新鮮に残っている気がします。

 

 

 

あれから30年以上経って

 

今思うのは

 

あの「ポップ・ロック・アイコン」でさえ

 

デヴィッド・ボウイは演じていたのだ、と。

 

いや、本人は楽しんでやっていたと思いますよ、むしろ。

 

 

 

実は彼、RCA在籍時は

 

成功の裏に、不幸の連続。

 

 

 

妻アンジーに裏切られ

 

 

 

 

 

マネージャーのトニー・デ・フリーズからは

 

 

 

 

「搾取」。

 

 

 

いくらアルバムが売れても

 

どんだけライブ演って客が入っても

 

本人の手元には残らない契約。

 

 

 

トニー・デ・フリーズは

 

「奴はどんな契約書でもサインするからさぁ~」って。

 

 

 

本当に一文無しなカルト・ヒーローがそこにいたのだ、と。

 

んで、これを救うアドバイスをしたのがジョン・レノンだったりします。

 

「自分のお金は自分で管理しなきゃだめだよー」 by レノン

 

 

 

当時は理解できなかった「ポップ・アイコン」デヴィッド・ボウイ。

 

 

 

これはこれで必要だったし

 

必要だからと言って

 

誰でもができる芸当ではないのだと

 

今さらながら思い知らされる

 

今日この頃であったりします…。

 

 

 

次回に続きま〜す。