『AKB48が好きで一日中アイドルを追いかけている人々へ贈る哲学や思想の言葉①』を受けて
大好きなアイドルが引退することになり、悲しみに打ちひしがれてネット掲示板にただむなしさを書き込みだけの人を擁護する意見だって出てくるでしょう。
そもそも人間は自分勝手な存在でもあります。誰かに生き方を強制される理由はありません。その人が生きたいように生きればいい。そんな言い方だってできるんです。
極端に言うならば、人は社会の中で信頼するパートナーと出会い、子供をもうけ命の輪をつないでいく、だからこそ社会が成り立つという側面は実は虚構であると言い切ってもいいのです。
一見すると重要な命の輪は、実は国家社会というシステムの要求でであります。国家は自らを維持しようとします。税金を取るためには、働き盛りがある程度いてくれないと困りますよね。そのためには毎年一定の割合で人が死んでいかなければならないし、新しく人が生まれてこないといけない。だから社会とか国家は若い人々に日々体を鍛え、勉学にいそしめなどというのです。
だから好きなアイドルに没頭して、もしその彼女がいなくなってしまうとなれば悲しみに打ちひしがれることで文句を言わる筋合いなどないのです。個人の側に社会の都合に合わせて生きなければいけない理由はないんですから。
こんなふうにオタクな人々を援護したっていいですよね。でもこれで満足できますか。個人と社会が切り離されてしまっていることは、どこかとても悲しいことではないでしょうか。確かに個人がどう生きようとも、それは個人の勝手だといえます。だけどそう言い切ってしまうことは悲しくはないでしょうか。
社会という大きなシステムを維持するために、国家をはじめとして社会は個人に様々な要求をします。社会を今と同じか、今よりいい状態に維持するための必要なことを要求します。勉強しろとか体を鍛えろとか、子供を生み育めとか。それを押し付けられるのは個人にとってはうっとおしいことかもしれません。
ただし、本当にうっとおしいだけならば、社会は今まで続いてこなかったはずなのです。社会が今のシステムを維持してきたのは、このシステムがうまく働いてそこで幸せに暮らすことができる人たちがいたからです。勉強して体を鍛えて、そして子供を生み育んできた人達が暮らす、そんな社会があったからいまも続いているはずなのです。
誰にも迷惑をかけずに生きていけるのなら、誰ともかかわりを持たずに好きなように生きればいい。ネットのアフィリエイトか何かで食べていけるのならそれでいい。自分ひとりのために最低限だけ働いて、アイドルの追っかけをして、そこに夢中になって、ただ自分の好きなことを、自分の好きなように突き詰めていけばいい。
でもちょっとだけ考えてください。
誰にも迷惑とならないことが前提であるから、一人で生きて一人で死んでいってもらいます。
歳をとってお迎えが来そうになったら、自分で自分の死体を片付けてもらいます。
資産の整理を済ませた上で、火山の加工にでも飛び込み、誰にも見られずに死ぬこと。そして死んだ後で誰にも何も気づかせないこと。
ここまで一人でできるのなら、それはすばらしいことです。誰の手も借りずに孤独と真摯に向き合い、誰にも迷惑をかけずに生きられれば、きっとすばらしい。
でも現実には孤独死という悲しい結末を迎えることでしょう。一人で誰とも関わらずに生きていくことはとても難しいことです。
結局、社会とのつながりを拒んで、自分のためだけに生きようというのは悲しいことと思います。だから個人が自分の好きなように生きることを否定はしないけれど、社会とのつながりを考えた上で生きてほしいのです。