平和な生活が一変したのは私が50歳、娘が小学6年の夏に義父がくも膜下出血で亡くなった時だった。

 

義父の葬儀の直後から、一人暮らしとなった義母がもともと患っていた躁鬱病を悪化させ、日頃から飲んでいた睡眠薬を大量にため込んで自殺未遂を図った、その現場を発見したのは私だった。

 

その光景はトラウマとなり、以来義母のことがとにかく恐ろしく、電話魔の義母の電話番号がナンバーディスプレイに表示されるだけで動悸を感じる状況が最近まで続いた。

 

そして、その1年半後の夏、中学2年の娘が拒食症を発症した。

拒食症の知識がほとんどなかった私には地獄の日々の始まりだった。

あんなに望んでやっと授かった娘、大切に育ててきた娘、なんでそんな病気になってしまったのか…

 

痩せ細っていく娘の姿は直視するのも恐ろしく、拒食症に取り憑かれてイライラしている娘と接する毎日が憂鬱で、朝目覚めると「あぁ、朝が来ちゃった」とため息と共にしばし呆然としてから起き、車の運転をしている時には「このまま突っ込んでしまいたい」という衝動にかられ、まるで出口のない真っ暗闇のトンネルに入り込んでしまったかのような絶望的な日々だった。

「拒食症は母源病」というフレーズが私を責め続けた。

 

娘の回復だけを願って4年が過ぎた頃、私が55歳の時、拒食症が落ち着いてきた娘を見届けて力が抜けたかのように母が胃癌を発症して亡くなり、あとを追うように1年8ヶ月後に父が亡くなってしまった。

 

義妹は仕事を持っていたので、両親が闘病中の3年あまり、母の病院のお迎えや日常のお世話、父の介護のために片道1時間ほどの道のりを週に3~4日通った。

 

娘が中学生になったら仕事をしたいと思っていたが、状況的にそれどころではなくなった。

けれど、心身ともに疲れはしたものの、両親との残り少ない時を共に過ごすことができて良かったと思っている。

 

娘はその後浪人を経て大学生となり、成人の日を迎え、拒食症は落ち着いたものの精神的な不安定は依然として続いており、自傷もあったし、ことあるごとに私に暴言を吐き、時に暴力をふるうことがつい1年ほど前まで頻繁だった。

 

娘が吐いた暴言の数々は私のこれまでの人生をすべて否定するもので、暴力をふるっている光景は日頃娘のことが大好きな愛犬が「お姉ちゃん、やめて!」と言わんばかりに吠えて仲裁するほどだった。

もう死んでしまいたい、と何度考えたか知れない。

 

不妊治療を経て妊娠した時、こんな苦しみは私の人生ではもうないだろうと思ったが、私の50代、第四章はそれ以上の想像だにできない展開で本当に苦しい日々だった。

 

そして、私のこの苦しみ、悲しみに夫が寄り添ってくれたことは…

まったくなかった。