これは、私の備忘録です。

あの日を忘れないようにするための。

 

 

 

おばあちゃんが救急車で運ばれてから3週間経った12月14日。

 

おばあちゃんは息を引き取りました。

 

 

2日前の12月12日が、

私がおばあちゃんに会った最後の日です。

 

 

救急車で運ばれたおばあちゃんは、

心臓が動かなくなる瞬間があるということで、

簡易のペースメーカーをつけました。

 

頑張っていたおばあちゃんは、

そのペースメーカーが取れるまでになりました。

 

だけど、肺炎になってしまいました。

それでも、おばあちゃんは頑張っていました。

肺炎も少しずつ良くなったそうです。

 

 

一番辛そうだったのが、呼吸器でした。

「自力の呼吸はストローで息を吸っているようなもの」

と医者が言っていました。

常に管が口に入っていて、

無意識に抜かないように、

両手はベットに結ばれていました。

話せないし、食べられない。

入院中はずっと点滴でした。

話せないから、首を縦か横に振るだけが、

おばあちゃんとコミュニケーションをとる唯一の方法でした。

 

 

この管は、最長で2週間くらいで抜かなければならないそうです。

感染症の恐れが出てくるから、と。

もし、管を抜くことで、

おばあちゃんの容態が悪化した場合、

喉を切開して呼吸器を埋め込むとのことでした。

そうすると、一生話せない、食べられない。

 

 

12月11日(火)、人に迷惑をかけない程の仕事を終えてから病院へ行きました。

両親と親戚は、医者に呼ばれました。

私は、ずっとおばあちゃんの手を握っていました。

家族と親戚、医者が戻ってきて、

医者がおばあちゃんに今後の説明をしました。

 

管を抜かなければならないこと。

抜いて容態が悪化した場合、切開をしなければならないこと。

切開をするためには、おばあちゃんの承諾が必要なこと。

 

もちろん、家族はどんな形になっても、

延命を希望しました。

 

だけど、おばあちゃんは、

医者の言うことに首を振りました。

延命を拒否したのです。

 

その様子を端で見ながら、

涙が止まりませんでした。

おばあちゃんにバレないように、

たくさん泣きました。

 

 

そして、翌日、

12月12日(水)、おばあちゃんは管を抜きました。

 

管を抜いた後のおばあちゃんは、

酸素マスクはしているものの、

「頑張っていて呼吸も安定している。

すぐにどうこうなることはなさそうだ。」

という母からの連絡を受けて、

母と入れ違いで、仕事が終わってから病院へ向かいました。

 

 

おばあちゃんの元に行くと、

起きていたので話しかけました。

 

すると、何やらジェスチャーをするのです。

そして、それが、

「紙とペンが欲しい」

という意味であることがわかり、

渡しました。

 

紙とペンを渡したところで、

起き上がれないし、

見ながら書くことはできません。

 

字の上に字を書いてしまい、

読めないものもたくさん。

 

でも、話せないから、

こうして伝えるしか方法がなかったのです。

 

 

最初に、

 

「帰るとき マスク 変えて 濡れて いや」

 

みたいなことを書いていました。

 

酸素マスクから水蒸気が出ていて、

それが気持ち悪かったようです。

それを看護師さんに伝えると、

「痰を柔らかくするためだから我慢してね」

と言われ、マスク内を拭いてもらいました。

 

書いても読めなくて理解できないこともあり、

私がトンチンカンなことを言うと、

顔をしかめて悔しそうな顔をしていました。

 

 

それから、

「明日 紙 持ってきて」

と書きました。

 

次の日も、筆談で話すために、

紙が終わってしまうと困ると思ったのかもしれません。

私が渡したペンが細くて持ちづらそうだったので、

「明日、紙ともう少し太いペンをお母さんに持って行くように言うね。」

と伝えました。

 

 

そして、

「帰っても 紙    ペン」

と書きました。

家に帰れたとしても、

紙とペンでしかコミュニケーションを取れないと思ったのだと思います。

 

「そんなことないよ!よくなれば今までのように話せるし、ご飯も食べられるってお医者さんは言っていたよ!」

 

と返しました。

 

 

そして、その後、

 

「いいかわからない」

 

とおばあちゃんは書きました。

 

「家に帰っていいかわからない」

 

と言いたかったのだと思います。

 

介護が必要になり、

話せないかもしれないし、

食べられないかもしれないし、

お母さんたちに迷惑をかけることは目に見えている。

だから、家に帰って「いいかわからない」。

 

流石に、これにはおばあちゃんの前で思い切り涙を溜めてしまいました。

 

お母さんでも、お父さんでもなく、

孫の私に弱い部分を見せる。

おばあちゃん本人も不安で怖かったのだと思います。

 

おばあちゃんには、

「いいことしか考えちゃダメだよ!悪いことを考えたら、その通りになっちゃうから、いいことしか考えちゃダメ!おばあちゃんは、大丈夫だよ!お母さんも、おばあちゃんは鉄人だから大丈夫って言っていたよ!」

と伝えました。

鉄人のあたりで、少しおばあちゃんの表情が和らぎました。

 

 

そして、面会時間が終わってしまったので、

家に帰りました。

帰り道の運転中に止まらない涙。危ない。

 

 

家に帰り、おばあちゃんとのやり取りを母に報告し、

二人で泣く。

母は、

「帰って来ていいに決まっているのにね。その準備もしているのに。」

と言っていました。

私は、おばあちゃんが帰ってきたら、

母のサポートをしようと心の中で決心していました。

 

 

次の日は、仕事のためにお見舞いにはいけませんでした。

母からおばあちゃんの様子を聞くと、

「呼吸は安定している。頑張っている。祈ろう。」

とのことでした。

 

 

12月14日(金)、仕事が終わったら病院に行くつもりでした。

仕事の合間に携帯を見たら、

家族LINEグループに、

「おばあちゃんが急変して亡くなりました」

と来ていました。

両親が病院について、15分後のことだったそうです。

私は、仕事の合間に見てしまったため、

そこから仕事が終わるまで、

現実をうまく受け入れられず、

そして、感情を外に出さないようにするのに必死でした。

 

 

仕事を終えて、家に帰り、おばあちゃんに会いました。

とてもとても冷たくて、

涙が止まりませんでした。

 

 

お通夜が17日(月)、告別式が18日(火)になりました。

だけど、どうしても仕事を休めなくて、

気持ち的には休みたいけど、

私が休むとたくさんの人に迷惑をかけてしまうから、

この二日間は、早退と遅刻で対応しました。

ありがたいことに、私の仕事は忙しいので、

働いている間は、悲しまなくて済みました。

 

この二日間は、たくさん泣いたし、

今はもう前を向いています。

 

 

おばあちゃんと最後にしっかりコミュニケーションをとったのは、

私だそうです。

12日のあのやり取りが、最後。

次の日は、もうほとんど反応がなかったそうです。

 

 

このブログを書きながらも泣いたけど、

もう気持ちの整理はつけられたかな。

 

 

12日に、私はおばあちゃんとある約束をしました。

だから、私は前を向いて、それを叶えるべく頑張ります!

 

 

おばあちゃん、

今までたくさんたくさん、ありがとう!

いつも見守ってくれていて、ありがとう!

天国で、おじいちゃんと喧嘩しないで仲良くしてね!