「親切にさせてくれてありがとう」
行き先が分からなくて困っている御婦人を、駅のホームまで送った。ホームのあちらとこちらで、ご高齢のご婦人と駅員さんが大きな声でやりとりをしていた。
ご婦人のそばに人は何人かいたけれど、みんなスマホか何かをやっていて誰も彼女に声をかけなかった。
私は、ホームのあちら側にいる駅員さんに繰り返し、降りる駅や乗り継ぎ方を尋ねる彼女を見ているのがしのびなくて、ホームのあちら側の駅員さんに「私がご案内しましょうか」と少し大きな声で言った。
駅員さんに「次の駅まで行ったらまた誰かに聞いて下さい」と言われて不安そうにしているご老人をそのままにしておけなかった。
駅員さんは「すみません、お願いします」と言って、自分の仕事に戻っていった。
私は「一緒に行きましょう」とご婦人に声をかけて後を引き継いだ。
電車の中で「80歳なんです」とか「浦和にお詣りに行って来たんだけど、浦和もすっかり変わっちゃって…」と話していらした。
重たそうに荷物を持っていらしたので「荷物、持ちますよ」と荷物を持って差し上げた。
持ってみたら、軽くなんかなかった。
「大丈夫だから」とおっしゃっていたけれど遠慮していただけなんだと分かった。
ご婦人は私に「お若いのにありがとうございます」「感謝です」と言って下さったけれど、私は普通のことをしただけだった。
もし母が、都会の中で同じように困っていたら、私は自分が助けなかったことを後悔したと思うし、私が母を助けられなかったら、誰かに母を助けて欲しかったと思ったと思う。
御婦人が「あなたはここの駅で降りるんだったの?」と聞くので、「いいえ、私はあと二つ先の駅なんですけど、いいんです。また乗ればいいので」と答えた。
乗り換えの階段では、ご婦人は手すりにつかまりながらゆっくりゆっくり歩いた。道に迷って荷物は重くて膝も少し、悪くて…。
私は母といろんな場所に出かけた。
抗がん剤の副作用で、手足のしびれが進んでいた時も、歩行が少しずつ困難になっていった時も、私と母は出かけたし、私は母の手を引いて歩いた。
母も階段を上ったり下りたりするときに手すりにつかまっていた。
「大丈夫だよ、ゆっくり歩くから」と言って。
私は、万が一母が階段から落っこちても大丈夫なように、母の後ろから階段を上った。だけど…私はもっと母に優しくすれば良かった。
もっともっともっともっと。
行動だけじゃなくて、もっと笑顔と笑顔と言葉で。
だから、少し膝の悪い手すりにつかまりながら階段を上り下りするご婦人の姿が母と重なった。
私は、彼女に分からないように涙をこらえた。
別れ際に彼女が「自分で食べようと思って買ったんだけど…」と言いながら「あなた開けてくれる?」とお菓子の袋を渡した。
「じゃあ開けますね」と袋を開けた。
「ありがとう、これ」とお菓子を二つ手渡してくれた。
電車に乗る姿を見届けて、笑顔で手を振った。
彼女は「あなたももう行きなさい」と見て取れる素振りで、車窓の向こう側の席から私に手を振った。
「あなたの降りる駅はここで良かったの?」
そんな風に、今自分が困っているのに、人のことを心配するところも母に良く似ていた。
優しい人はいつも少し損をする。
遠慮してしまうから。
自分が困っているのに、困っていても人のことを心配してしまうから。
だけど、私は嬉しかった。
「あなたは?」と、彼女は私のことを気にかけてくれた。
本当は電車がしっかり出発するのを見届けたかったのだけれど、多分お互いに少し照れくさい。だから、私はもう一度にっこり笑ってホームからお辞儀をして、立ち去った。
私は…自分の中に沸き起こった感覚を忘れたくなくてこれを書く。
親切にさせてくれてありがとう。
道案内くらい、私、なんてことない。
駅を下車してホームまで見送るの、だって10分くらいしかかからない。
私が普通にしたかったことをさせてくれてありがとう。
東京は東京砂漠で、人に親切にすることすら時にはばかられるみたい。
だけど…私はいつも考える。
「私がその立場だったら?」
「私が道に困っていたら?」
「母がそんな風に道に困っていたら?」
だったら、私だったら助けてほしいし、助けてもらったら安心して安堵する。
「ありがとう」って思う。
だから、思うんだ。親切にさせてくれてありがとう。
私が普通にしたかったことを。
自分の駅に降りて、忘れないようにとすぐにスマホを打った。
だけど、電池切れで、帰宅しパソコンに向かい続きを書く。
さっきまでの感覚が少し薄れる。遠のく。
東京はこんなところまで東京砂漠だ。
心が震えた体験ですら、雑踏の中にかき消されて行くみたい。
だけど、私は私が信じた通りに生きていこう。
そう思う。今までもそう生きて来たように。
私はこうして母を通して世界を見る。
多分、困っている人がいたらまた助ける。
もしかしたら、自分は一時的に遠回りをする。
だけど、いいんだ、それで。だって、私がそうしたいから。