母のことを思う① | actress美智子の自由な日々

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日常を気ままにつぶやきます。
好きな花、好きな服、お芝居、出会った人たち、美味しかったもの。
ときどき、カウンセラーとコーチとしての顔もお見せします。

母のことを思う。

3月の上旬に5日間ほど新潟に行ってきた。
母に会いに行ったのだ。
母との軌跡を一人で辿った。
母と行った店、歩いた場所、眺めた景色、それらの場所をひとりで巡った。3月3日が家の猫の12歳の誕生日だったから、それをきっかけの一つにして、ようやく私は新潟に行ったのだった。

年末からずっと故郷の風や空に触れたいと思っていた。

でも、母のいない新潟に行って私はその喪失感に耐えられるだろうか。
母がいない新潟なんかに行ったって。
それが怖くて行けなかった。

だけど、私は行かないことの方に耐えられなくなった。


都会生活は荒む。
一年前に都心に近い場所に越してから、大好きな花や緑に触れる機会も減り、私はますます荒む一年を過ごした。
そんな中でも時々リフレッシュすることが出来たのは、母の看護のため一か月に一回は必ず新潟に出向いたからだった。

亡くなることが決まっていた母の看護をしながら(矛盾するようだが私はそれを最初から信じていなかったが)、苦悩し、しかし母も私も希望を持ちながら過ごした。母に明るさを届けると決めた。心の中は苦しかった(母はもっとそうであっただろう)。

つらい思いで新潟に足を運びながらも、不思議なもので、故郷の風や青空はいつも私を癒した。人々は優しく温かで、時間はゆっくり流れ、私は清らかさを取り戻した。

母が10月の下旬に亡くなり、11月の頭に葬儀を出した。
喪主は父ではあったが、実質半分は私が仕切ったようなものだった。

「母にふさわしい最期を」
私はつらかったけれど、頑張った。
取り乱さなかったし、泣かなかった。
毅然と弔問客の相手をした。時に笑顔で。

母の葬儀を出すとすぐに東京に戻った。
母のいない家にいることが耐えられなかった。
あの家は、お母さんがいたからこそ、あたたかで愛に満ち溢れていたのだ。
母のいない、母の寝室。
猫も落ち着かない。
寒々とした光景だけがそこにあった。

ここはもう私の家じゃない。
私は泣いた。

そうして東京に戻った。

戻ってしばらくは母の愛や地元の人々の温かさが私の体の中に残り、私は幸福感に満たされていた。
でも…一週間ほどするとつらくてつらくてたまらなくなった。

母に電話をして声を聞きたくてももうそれをすることが出来ない。
「ここはあなたの家なんだからいつでも帰っておいで」いつも母はそう言ってくれたが、それを言う母はもういない。

寂しくなり新潟の叔母や叔父、母の友人たちに連絡を取ってみると最初こそ、みんな親切だったが、2度目ともなるとなんとなく冷たかった。
あんなに、みんなであの場を共有したのに(葬儀、告別式、お骨拾い、看取り…)離れてしまうと少しずつ少しずつ実感がなくなってしまうのかもしれないなと思った。
心で母のことを思っていても、東京にいる私のことを気にかける余裕などないのだろうと思った。

だけど…頭で理解してみたところで、私のつらさがなくなるわけではない。

事情を知らなかったり、その場を共有すらしていない東京の人々にはもっと話せないと思った。