那俄性哲也騎手③

 
 
 
 
 
重賞初制覇を成し遂げた1983(昭和58)年は史上3頭目の4歳(現3歳)三冠馬マグニカチドキが登場し、翌年は続けざまに三冠馬サワトヨキング、さらにその翌年は二冠馬ミスタージヨージと、毎年“1強”状態になっていた中で、この時期は重賞に関しては苦戦を強いられます。
 
 
 
しかし、1985(昭和60)年になるとこの状況を突破。
 
とりわけその年末に制した第16回ヤングチャンピオンはローゼンホーマとのコンビによるもので、伝説の幕開けでもありました。
 
 
そこからキングカップ・スプリングカップ・福山ダービーの重賞3勝を重ねたローゼンホーマは、全国の猛者が園田競馬場に集結した第25回楠賞全日本アラブ優駿でこれまで以上の楽勝を飾り、レース史上初となるデビュー以来無敗での優勝という記録まで作りました。
 
全国レベルでも歴史に名前を刻む那俄性騎手、とてつもないですね。
 
 
 
 
 
(月刊「地方競馬」昭和61年6月号から複写)
 
 
 
 
楠賞の本馬場入場前の那俄性騎手。
 
グリグリ大本命に騎乗して、この笑顔です。
 
胆の座り方が違うというのか、度胸が青天井というのか…一般的な感覚や物差しでは測ることのできない、奥行きがある人なのでしょう。
 
 
 
ローゼンホーマは、生涯において数々の記録を打ち立てました。
 
 
福山800mレコード(しかも自分で自分のレコードを更新)。

 
史上初の楠賞無敗制覇。
 
福山所属馬唯一の全日本アラブ大賞典制覇。
 
 
アラブ系競走馬の収得賞金1億円突破最速記録並びに最高額。
 
こちらは福山の枠を越え、全国ナンバーワンの記録でした。
 
 
そして福山競馬場史上初めて行われた、競走馬の引退式。
 
 
全ての蹄跡が、那俄性騎手とともにあったのです。
 
 
 
 
(第25回楠賞全日本アラブ優駿、月刊「Furlong」平成2年5月号から複写
 
 
(第33回全日本アラブ大賞典)
 
 
 
 
 
わずか4年間でここまで突き抜けてしまったら反動が来そうなものですが、那俄性騎手の才能や運、引きの強さは凡人のそれとはまるで異なっていました。
 
 
ローゼンホーマが引退した翌年の1989(平成元)年には、楠賞史上2頭目の楠賞無敗制覇をアサリユウセンプーとともに達成します。
 
 
 
 
(第28回楠賞全日本アラブ優駿)
 
 
 
 
自分で切り拓いた史上初の記録に、自分で2番目として並ぶというのはなかなか無い話です。
 
もう言葉が見つからないよ…。
 
 
 
 
 
 
 
さらに、アサリユウセンプーと同世代のブラウンバツトは長く現役を続けましたが、競走馬生活の中で最も輝いた瞬間と言えるが1993(平成5)年の佐賀・西日本地区招待アラブ大賞典。
 
そのとき鞍上を務めたのは、主戦の石井幸男騎手でも、初重賞の片桐正雪騎手でもなく、那俄性騎手でした。
 
 
 
 
(第3回西日本地区招待アラブ大賞典)
 
 
 
(第3回西日本地区招待アラブ大賞典優勝騎手表彰状)
 
 
 
 
 
 
 
このように、とりわけ昭和末期から平成初期にかけて、強烈なインパクトを残した那俄性騎手でしたが、ブラウンバツトの遠征からわずか半年、突如32歳の若さで引退を選ぶこととなりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
現役最後の日となった1993(平成5)年9月27日の引退式を取り上げた記事です。
 
 
見出しにもあるとおり、引退の理由は腰痛等に伴う減量苦にありました。
 
それさえなければ、華麗にして痛快、舞台が大きければ大きいほど派手に結果を残す豪胆な騎乗がまだまだみられたことでしょう。
 
 
 
しかし、記事のコメントのとおり「ぼろぼろになるまで乗るのもいいが、まだやれると言われながらやめるのも生き方」と、那俄性騎手は現役生活にしがみつくことなくレースに別れを告げたのでした。
 
 
その後、調教師に転身し、福山競馬場廃止から高知競馬場へ移籍しても全国区の活躍をされているのは、皆さんの方がご存じかと思います。
 
これからもド派手な活躍をなさってほしいですね。
 
 
 
 
 
(おわり)
 
 
 
 
 
【 オマケ 】 那俄性哲也語録
 
『広島風お好み焼きはいけん。野菜炒めを食うとるような気がしてくる』 (広島空港にて)