世間の評判につられて、よせばいいのに「ゴジラ-1.0」なる映画を見てしまった。

ひどい作品、痛恨、見る前から分かっていたくせに、もしかすると…、と浅はかな期待をしてしまい、案の定、自分の定見の未熟さを思い知る羽目になった(苦笑)。

 

ちなみに、怪獣映画だったら、本来ネタバレなんてあまり問題じゃないと思うのだけど、この作品では何だかネタバレ厳禁のような雰囲気。

この映画を未見の方には、今回のブログはネタバレだらけなので、悪しからず。

 

映画の感想(文句(笑))を書こうと思ったのだけど、ふと思い出して、以前、このブログの最初に書いた「シン・ゴジラ」の感想、今また読み返してみたら、我ながら、なかなか本質をついた、いいことを書いている(笑)。その直後に続けて書いた「ゴジラとガメラ」や「怪獣映画」の記事もあわせて読めば、この「ゴジラ-1.0」の感想としても、まったく同じことがあてはまって、言いたいことはほぼ言い尽くしている。なんか今さら言い足すこともないような感じ(笑)。

 

以前の記事はこちら

 

 

 

 

 

 

 

で、単刀直入に言えば、この作品、7年前に予想した通り、ゴジラ映画の迷走には歯止めがかからず、それどころか、もう暴走(狂騒)に近い(笑)。

 

これはもはや「怪獣映画」というより「戦争映画」という方があっている。

主人公の抱える苦悩や葛藤は、本当のところ、ゴジラと何の関係もない。特攻隊の生き残りという、後ろめたさ、情けなさ、惨めさ、これまで幾度となく映画で描写されてきた、それ自体果たして美化していいのか、紋切り型の陳腐なメンタリティー。たまたまゴジラと遭遇したから、それがトラウマとなってはいるけど、ゴジラからすれば、そんなもの知ったことじゃない、偶然が重なって、主人公が勝手に粘着しているだけの、そんな個人的な事情が物語のコアになっていて、この作品が「怪獣映画」である必然性はどこにもない。

敵はゴジラでなくても、怪獣でなくても、何でもよかったのだ。敗戦の屈辱や喪失感、後悔の念を晴らしたい、その雪辱の対象がたまたまゴジラだっただけ。敵が人間(アメリカ兵)では特攻作戦も正当化できないが、凶悪な怪獣だったら、ためらわずに決行して、節度ある自己犠牲なら万事許される、ということ。

戦争映画に特有の、絵面は男だらけ(笑)、「男同士の絆」をこれでもか、と前面に押し出してのヒロイズム賛歌。家父長制の価値観丸出しで、女の役割は、銃後の守りと愛による癒し、か弱い女子供を守るために命懸けで戦う勇敢な男たち、あーあ、あまりに気持ち悪くて、もう吐きそう(笑)。で、とどめは、ゴジラを倒した後の男ら全員での最敬礼、いや、一体何に敬礼しているのか意味不明だけど、敬礼の対象以前に、これ、全員で敬礼すること自体に自己陶酔しているのが醜悪この上ない。

映画のテーマとか、もうどうでもいいのだけど、命の尊さとか、苦しくても生き続けることの大切さとか、家族愛とか、結局、単純なナショナリズムと大差ない。だったら、最後に主人公がゴジラに突入する戦闘機から脱出して生き延びるのも、かえって中途半端。第一作の「ゴジラ」が荒ぶる神を人身供犠で鎮めるというアレゴリーだったのに対して、このようなエンディングでは、「怪獣」という不条理な存在の神秘性や非日常性そのものが否定される結果になってしまう。

 

怪獣映画という観点で言うなら、出だしからして、夜中に轟音がして、サーチライトを向けたら、いきなりゴジラの全身が浮かび上がる、って、何のひねりもなく、普通の野獣の登場みたいで、見た瞬間がっかり、いや、これは怪獣映画じゃない、って一瞬でもう見切り。

そもそもゴジラという怪物の存在が最初からデフォルトなのが謎、大戸島ってのは、島の伝説があるくらいだから、無人島ではないだろうに、住民はどこにいるのか、これだけの怪物が本土にまるで知られていない、てのはどういうこと?

とにかく設定が杜撰すぎる。

ゴジラは、なぜ東京を襲撃するのか、手当たり次第に街を破壊する、怪獣は本質的に不条理な存在とはいえ、行動原理に目的性も一貫性もない、食べるわけでもないのに何にでも噛みついて咥えて放り出す(笑)。ただただ無節操で凶暴なだけの存在なのには呆れる。

ビジュアルも非常に奇妙。感情も意思もない、ロボットのような歩き方。熱線を放射するときの、背びれががくがく伸びるのも何だか機械仕掛けのよう。海で船を追ってくるときの、水の抵抗があるだろうに、潜らず鼻から上だけ水面に出して、その間抜け面は滑稽としか言いようがない。

いやあ、もう、見ていてひたすら苦笑。

 

最も問題なのは、映画の全編を通して、リアリティーが皆無だということ。

そもそも「怪獣映画」が「怪獣映画」であるためには、観客を非日常の世界へ引きずり込む「リアリティー」が必須。普通の怪獣映画なら、設定は観客の生活している現代と一致しているのに、この映画では第一作へのオマージュなのか、戦争映画のベースとするためか、(あるいは、ゴジラが小さく見えないように、建造物との縮尺調整のためか)、わざわざ戦争直後の日本にしている。それだけでも、リアリティーは実感しづらいのに、当時の街並みや人々の生活の描写はストーリー上の必要最小限に限られ、観客の住む世界とは違う、どこか他所の世界の物語に終始。ゴジラの第一作だって、公開当時にしてみれば、同時代の「現実」が共有されていたはず。

 

さらに、主人公たちの人間ドラマのパートは、ストーリーを進行させるためのご都合主義に満ちて、キャラクターの心理の掘り下げは非常に浅く、台詞は大半が説明台詞、反作用で役者は演技過剰。避難指示とか防御体制の無策とか、不自然な状況は、すべて政府の隠蔽体質、ことなかれ主義の一言で簡単に片づける。テキトー感満載(笑)。で、この人間ドラマも、なぜか都合よく、ゴジラが襲撃のインターバルを与えてくれるので、コマ割り漫画のように展開していく。

例えば、ゴジラが街を襲撃した際、熱線の爆風から救うため、主人公に思いを寄せる同居の女が主人公をビルの陰に突き飛ばし、自分は爆風に吹き飛ばされてしまうシーン。体重の軽い女性が男性を動かすのなら、むしろ体当たりして、自分も一緒にビルの陰に倒れこむのが自然。そうしないのは、あえて行方不明になって、後に再会の奇跡を演出するためでしかない。このシーンの瞬間に、女の再登場をはっきり予感。

この例だけに限らない。だから、この映画の結末も、映画の半ばくらいから、ほぼすべて読めていた。計画したゴジラ殲滅作戦は失敗して、主人公が特攻、だけど、脱出装置で助かり、最後は同居の女と再会、あまりに予想通りの展開なので、ある意味、よくやるよ、と逆に感心(笑)。

これ、リアリティーを犠牲にして、ストーリーやメッセージを優先させる、という、少なくとも「怪獣映画」では決してあってはならない製作態度。

 

ま、いいか。これくらいにしておこう(笑)。

久しぶりに遠慮のない悪態だらけ、天邪鬼な自分の本領全開、嫌味たっぷりな感想記事が書けて、非常にすっきり(笑)。

今回は、出演した役者の一人ひとりについては、ハッシュタグもつけないし、特にコメントはしない。こんな映画だから、芝居がきちんとできなくても仕方がない。役者の責任ではない。

エンディングを見ると、どうやらこの映画、続編があるようにも思われるけど。もう騙されないぞ(笑)。続編など、あっても、絶対に見るもんか。

てか、ゴジラ映画とは、金輪際縁を切った方がよいのかも(笑)。