どうも自分はどこかへそ曲がりで天邪鬼なところがある。
シン・ゴジラが記録的な興行成績の大ヒットとなり、観客からの高評価や芸能人・評論家から絶賛のコメントが寄せられてるのを聞くと、非常に苦々しい思いにかられる。
前にブログに書いたことで、何だかしつこくて申し訳ないけど、この作品は到底「怪獣映画」とは呼べない。それに、おそらく作り手も「怪獣映画」だとは思っていないだろう。
でも、世間的にはこれを怪獣映画のくくりに入れてしまう人が大勢いるのではないか。こんなものが怪獣映画として、それも傑作として歴史に残るようなことは断じて認めがたい。
そういう風潮の意識の奥では、怪獣映画などというのは、そもそも映画の中でも低級なものだけれど、しかし、この映画のようなリアリティーのある作りをすれば、普通の怪獣映画とは次元の違う別物の傑作になる、などという考え方があるような気がしてしかたがない。
怪獣映画について語る前提として、そもそも映画とは何なのか?
それは娯楽なのか、芸術なのか。
映画は娯楽と割り切ってしまうのであれば、シン・ゴジラのような作品を、まあ、観客の好みによっては、傑作と呼んでも構わないし、怪獣映画なんて所詮は、パニック映画とかSFスペクタクル映画の一部門、特撮映画のマイナーなジャンルにすぎない、と考えるのも、ある意味当然かもしれない。
しかし、自分はそうは思わない。
芸術の定義はともかくとして、映画には単なる娯楽にとどまらない可能性がある。
名作と言われる映画に共通しているのは、日常とは異なる別世界のリアリティーに観客を引き込む、という魅力である。人間は、みな自分の普段の生活こそが現実だと思っている。しかし、それは本当なのか。それは単なる思い込みや先入観にすぎないのではないか。日常だと思っているものは、実は幻影か、錯覚で、真実のリアリティーは自分の知らないところに存在するのではないか。そういう潜在的な疑問や不安、あるいは欲求。
そういうものに対して、力強いリアリティーをもって一撃を加えるのが、名画の条件ではないのだろうか。それは、演劇ともテレビドラマとも違う、映画固有の意義ではないか。
そう考えると、怪獣映画というのは、映画の脇道やマイナーなジャンルどころか、映画の本来的な王道とさえ言えるのではないか。映画関係者の誰もそんなことには気づいてないけれど(笑)
シン・ゴジラについて言えば、この映画が提示しているのは、日常に衝撃を加える真のリアリティーとは言えない。この映画は、解決困難な未曽有の危機に突然襲われたとき、我々にできることは何か、国家や官僚組織における人間行動、政治的・軍事的なシミュレーションという程度の、低次元の疑似リアリティーでしかない。映像としての異様さや面白さや迫力のある破壊描写以外に、その危機がゴジラである必然性もない。
怪獣映画を見下している人だけが、この映画を傑作として評価するのではないか、と思う。
優れた怪獣映画の要件として、思いつくままに書いてみると、
- 怪獣が出現した理由・原因は、究極的には不明または謎のままであること
- 怪獣は適度に巨大であること (視界に収まらないほど巨大ではないこと)
- 怪獣は破壊行動をしなくてもよいが、畏怖ないしは恐怖の存在であること
- 怪獣に対する人間の抵抗・反攻は、リアリティー上の必要最小限であること
- 怪獣の映像は、普通の人間の視線から見たものが中心であること
- 怪獣の映像は、街並みや建造物など日常の風景との対比で描かれること
というようなことになるだろうか。
これもシン・ゴジラについて言うと、出現理由や生体メカニズムに対する過剰な説明がまったく不要。体長も巨大すぎる。破壊行動も必要以上に過激で、畏怖よりは邪悪さや禍々しさしか感じさせない。人間の抵抗・反攻の描写も多すぎる、というか、それが映画の中心テーマになってしまっている。ゴジラの姿も、空撮による俯瞰映像が中心。地面から見上げる映像もあるが、誰のどのような視点から描かれているのかがまったく不明。
つまり、優れた怪獣映画の要件をほとんど充足していないのだ。
最後に、怪獣映画は、見終わった後に、凶悪な怪獣を倒して達成感・爽快感に浸るようなものではなく、映画館を出てふとビル街を見上げたとき、そこに怪獣の姿がありはしないか、言い知れぬ不安とともに不思議な憧憬を感じるようなものでなくてはならない。
そういう意味で、「怪獣映画」は、「パニック映画」や「SF映画」というジャンルではなく、むしろ「幻想映画」(ただし「ファンタジー映画」とかいう軽いものではない)という表現の方が合っているのかもしれない。
ときどき思うことだが、怪獣映画は、デ・キリコの不条理絵画にどこか似ている。(ちなみに、例えば、ダリの絵なんかとはまったく違うので誤解なきよう(笑))
キリコの絵を思わせるような、そういう怪獣映画にいつか出会いたいと思っている。