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m。。m
紫式部のひとり娘
大弐三位(だいにのさんみ)
有馬山ゐなの笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
「君はもう僕の事忘れてるでしょ」
と言って来た浮気な男性に
「私は忘れてないわよ薄情なのは
アナタの方でしょ」
とお返しした歌です
気の強さが感じられるけれど
なんかホロリともさせられる
いじらしい歌ですね
大弐三位の名前は
賢子(かたこ/かたいこ/けんし)と
わかっているそうです
このギャグマンガでは賢子は
ケンちゃんと呼ばれています
2巻で誘拐されるケンちゃん
3巻で救出に向かう紫式部犯人は
賢子は紫式部と藤原宣孝との
間に生まれたひとり娘
母の紫式部同様、賢子も
中宮彰子の女房になりました
当時、帝の御子や姫御子の乳母に
なることは女房としての栄誉
華々しい出世だったのですが
賢子は 親仁親王(ちかひと・のちの
後冷泉天皇・道長の孫 )の乳母に
任命されました
つまり賢子は
社会的に成功した女性
類まれなる頭脳を持つ紫式部が
どのように子育てをして
娘をサクセス・ガールにしたのか
興味がわきます
賢子は999年ごろ出生とみられて
いますから、源氏物語執筆の時期と
(1008年に文献に出てくるので
1008年には幾つかの帖が存在)
子育ての時期が重なっていると
考えられるのです
源氏物語には中納言兼輔の和歌
人の親の心は闇にあらねども
子を思ふ道にまどひぬるかな
が何度も繰り返し出てきますが
紫式部自身が子育てに惑いながら
物語を書き続けていたわけです
ひょっとしたら、おじいちゃんの
為時が賢子の教育にも協力・活躍
したのかもしれません
(賢子の父・宣孝は1001年没
賢子がまだ2歳ぐらいの時)
「紫式部邸宅址」の碑が建つ
廬山寺(ろざんじ)のパンフには
その場所にかつて中納言兼輔の邸
があり、兼輔のひ孫・紫式部は
その邸で<藤原宣孝との結婚生活を
送り、ひとり娘の賢子を育て
源氏物語を執筆した>と
書かれています
廬山寺は京都御苑のすぐ近く
紫式部は枇杷殿(びわどの)でお仕事
仕事と子育ての両立に良好な
ロケーションだったのでは?
兼輔邸なら為時も一緒に
住んでいたのでしょうから
賢子の教育にも参加して
いそうですね
為時はあまりお仕事が忙しく
なかったみたいだし
ならば紫式部の時と同じく
女子であっても漢文・
漢詩の教育を施した
ことでしょう
女性が漢学を学ぶと不幸になる
トカナントカいう迷信的思考は
為時や元輔や高階成忠には
無かったのでしょう
賢子は学者である祖父と
母や母の物語から
広く深い教養を授けられ
長じてからは才女として
名を馳せたのでしょう
母方(紫式部方)のご先祖には
三条右大臣や三十六歌仙の兼輔
しかも三条右大臣は
早くに失った父・宣孝の曾祖父
(ひいおじいさん)でもあるのです
一緒に暮らしていたであろう
祖父・為時も学者で漢詩人・歌人
そして母は後に世界的作家となる
紫式部
これが賢子のお血筋
![ハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/142.png)
![ブルー音符](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/144.png)
賢子は道長の甥・藤原兼隆と
結婚していたけれど
(親仁親王の乳母になった時期
産んでいた子は兼隆の娘)離別
その後高階成章と再婚
このとき賢子は38歳ぐらい
翌年成章の子を出産し
80歳過ぎまで長生きしたと
みられています
(病院もない時代の高齢出産に
驚きますが
道長正妻の倫子はなんと40代で
嬉子を出産しています)
成章が九州に赴任していた
時期には2回も
九州まで会いに出かけているし
賢子はバイタリティ
あふれる活発な女性
だったようです
賢子を主人公にした
ジュニア向き小説が出版されてます
まっすぐ欲しいものに向かってゆく
度胸があって元気いっぱいな賢子
新人いびりにどう対処するか
昔から変わらぬこの問題は
平安時代にもあったのですね
首謀者に直談判・イジメを
即刻やめるよう交渉する賢子
非難でも懇願でもなく交渉
冴えわたる頭脳と
ピッピもビックリの勇気を
兼ね備えた女子です
来年のドラマでロバート秋山が演じる実資
(さねすけ)も最終章に出て来ます
藤原実資っていい役 実資は親としては
あまりにもハッキリと愛玩子をもちますが
そこは出て来ないでしょうしね。。。
お読みいただきありがとう
ございました
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