アクセスありがとうございます
源氏物語を読みつつの
毒親育ちのツブヤキですが
今回は毒親関連ではなく
いいね!ボタンも無いです
長~いし興味ない方はもう
トバシテ下さいネ(m。。m
テーマがバラバラですみません![あせる](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
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② 三条右大臣(藤原定方)
名にしおはば逢坂山のさねかづら
人に知られでくるよしもがな
「さねかづらの蔓をたぐる様に
密かにあなたに逢いに来る
方法はないものだろうか」
と「忍ぶ恋」を歌っています
紫式部のご先祖さまのひとり
三条右大臣は
京都市営地下鉄烏丸御池
(からすまおいけ)駅の近くに
「大西殿(おおにしどの)」と
呼ばれる邸宅を構えていました
現在、京都府保事協(保険事業協同組合)
会館がある場所・14世紀には足利尊氏邸が
同じ場所にあったそうです![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/014.png)
![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/014.png)
「足利尊氏邸・等持寺跡」と書いてる場所
現地には説明板も設置されていて
定方様のお邸の事や
源氏物語中のお邸との関連も
書いてあります![本](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/240.gif)
![本](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/240.gif)
ええっちはやぶる~の人の
とビックリ
紫式部の父方祖父・藤原雅正の
母は定方様のお嬢様・そして
雅正の父は②の中納言兼輔です
定方様は京都の山科(やましな)に
勧修寺(かじゅうじ)というお寺を
醍醐帝の命により建立
蓮の名所です![ピンクハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/083.png)
![ピンクハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/083.png)
醍醐帝の生母・藤原胤子(いんし/
たねこ)は定方様の姉(または妹)
勧修寺は早逝した藤原胤子の供養の
為に建立されたのです
ちなみに醍醐帝の養母となったのは
基経(891年没)の娘・温子(おんし/よしこ)
宇多帝の寵愛を受け5人の御子達を
産んだ胤子の死の翌年(897年)
温子は醍醐帝の養母として皇太夫人と
なり中宮に。。。
温子は時平の異母妹
だから子孫は勧修寺流と
呼ばれます
定方様は
山科に御縁の深い方
🍆
🍆
🍆![ぶどう](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/243.png)
![ぶどう](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/243.png)
![ぶどう](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/243.png)
![ぶどう](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/243.png)
定方様の母方は藤原家ではなく
山科の豪族・宮道(みやじ)家![星](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/089.png)
![星](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/089.png)
勧修寺そばの宮道神社には
上記の歌の碑があります![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
源氏物語千年紀を記念して
建てられたものだそうです
『紫式部日記』中での源氏物語への
初の言及が1008年だったため
2008年が千年紀でした![乙女のトキメキ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/473.png)
![乙女のトキメキ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/473.png)
山科・宮道神社の歌碑
「名にしおはば~」
※定方様や藤原胤子のお母様は
宮道列子(たまこ)
紫式部の母方祖母も宮道家の方
である可能性が高いそうです
倉本一宏『紫式部と藤原道長』
(講談社現代新書)にも
可能性が高いと記述ありました
『光る君へ』時代考証
ご担当の先生の本
定方様は兼輔様(紫式部の
曽祖父・中納言兼輔)と
イトコであり親友でもあり
義理の親子でもあり
という間柄でしたが
おふたりとも母方が
藤原ではありません
本当の仲良しであられたようで
「いやもう死んで草木に
なっちゃった方が」
「いやいや君が死んだら
ぼく泣くほかないよ
」
![泣](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/665.png)
みたいな歌を交わして
おられます
(醍醐帝薨去の時)
定方・兼輔のおふたりは
没年1年違いです![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/014.png)
![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/014.png)
はかなくて世に経んよりは山科の
宮の草木とならましものを
(定方・873年~932年)
山科の宮の草木と君ならば
我は雫にぬるばかりなり
(兼輔・877年~933年)
醍醐帝(在位897~930)の御陵も山科なのです
仲良しだった若い頃の
源氏と頭中将がそのまま
仲の良いままに![キラキラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/088.png)
![キラキラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/088.png)
お年を召したような感じ
だったのでしょうか
文学に限りない愛を注ぎ
若い歌人達を援助していた
というお2人
このお2人双方の血をひく
紫式部が世界的な女流
作家になったことは
やっぱり運命的な事
なんだろうなと思います
NHKでドラマ化もされたコミック
タイムスリップでやって来た現代
スノボやスキー、コンサート等
仲良く満喫する源氏と頭中将が
見れる第4巻
現代に来てもやはり頭中将が
いてこそ輝きを増す源氏。。。
お読みいただきありがとう
ございました♪(o ̄∇ ̄)/
続きは娘の大弐三位についてです