アクセスありがとうございます

源氏物語を読みつつの

毒親育ちのツブヤキですが
今回は毒親関連ではなく
いいね!ボタンも無いです
長~いし興味ない方はもう
トバシテ下さいネ(m。。m
テーマがバラバラですみませんあせる

門松 鏡餅 門松 鏡餅 門松

② 三条右大臣(藤原定方)

 

名にしおはば逢坂山のさねかづら

    人に知られでくるよしもがな

「さねかづらの蔓をたぐる様に

密かにハートあなたに逢いに来る

方法はないものだろうか秘密

と「忍ぶ恋」を歌っています

 

紫式部のご先祖さまのひとり

 三条右大臣は

京都市営地下鉄烏丸御池
(からすまおいけ)駅の近くに
「大西殿(おおにしどの)」と
呼ばれる邸宅を構えていました
 現在、京都府保事協(保険事業協同組合)
会館がある場所・14世紀には足利尊氏邸が
同じ場所にあったそうですびっくり

「足利尊氏邸・等持寺跡」と書いてる場所

現地には説明板も設置されていて
定方様のお邸の事や
源氏物語中のお邸との関連も
書いてあります本

ええっ!?ちはやぶる~の人の!?

とビックリもみじ

 

紫式部の父方祖父・藤原雅正の

母は定方様のお嬢様・そして

雅正の父は②の中納言兼輔です

定方様は京都の山科(やましな)
勧修寺(かじゅうじ)というお寺を
醍醐帝の命により建立
蓮の名所ですピンクハート

 

醍醐帝の生母・藤原胤子(いんし/

たねこ)は定方様の姉(または妹)

勧修寺は早逝した藤原胤子の供養の

為に建立されたのです

 

ちなみに醍醐帝の養母となったのは

基経(891年没)の娘・温子(おんし/よしこ)

宇多帝の寵愛を受け5人の御子達を

産んだ胤子の死の翌年(897年)

温子は醍醐帝の養母として皇太夫人と

なり中宮に。。。

温子は時平の異母妹

 

 

だから子孫は勧修寺流

呼ばれます

定方様は

山科に御縁の深い方
🍆ぶどう🍆ぶどう🍆ぶどう
定方様の母方は藤原家ではなく
山科の豪族・宮道(みやじ)星
勧修寺そばの宮道神社には
上記の歌の碑があります下矢印
源氏物語千年紀を記念して
建てられたものだそうです
 
『紫式部日記』中での源氏物語への
初の言及が1008年だったため
2008年が千年紀でした乙女のトキメキ
 
山科・宮道神社の歌碑
「名にしおはば~」
※定方様や藤原胤子のお母様は
宮道列子(たまこ)
紫式部の母方祖母も宮道家の方
である可能性が高いそうです
倉本一宏『紫式部と藤原道長』
(講談社現代新書)にも
可能性が高いと記述ありました

『光る君へ』時代考証

ご担当の先生の本下矢印

定方様は兼輔様(紫式部の
曽祖父・中納言兼輔)と
イトコであり親友でもあり
義理の親子でもあり
という間柄でしたが
    
おふたりとも母方が
藤原ではありません
本当の仲良しであられたようで
「いやもう死んで草木に
なっちゃった方が」
「いやいや君が死んだら
ぼく泣くほかないよ泣
みたいな歌を交わして
おられます
(醍醐帝薨去の時)

定方・兼輔のおふたりは

没年1年違いですびっくり
はかなくて世に経んよりは山科の
宮の草木とならましものを
             (定方・873年~932年)
 
山科の宮の草木と君ならば
我は雫にぬるばかりなり
             (兼輔・877年~933年)
醍醐帝(在位897~930)の御陵も山科なのです
 
仲良しだった若い頃の
源氏と頭中将がそのまま
仲の良いままにキラキラ
お年を召したような感じ
だったのでしょうか
文学に限りない愛を注ぎ
若い歌人達を援助していた
というお2人

このお2人双方の血をひく

紫式部が世界的な女流

作家になったことは

やっぱり運命的な事スター

なんだろうなと思います

本 本 本 本 本

NHKでドラマ化もされたコミックブルー音符下矢印

タイムスリップでやって来た現代時計

スノボやスキー、コンサート等

仲良く満喫する源氏と頭中将が

見れる第4巻

現代に来てもやはり頭中将が

いてこそ輝きを増す源氏。。。キラキラ

 

 

お読みいただきありがとう

ございました♪(o ̄∇ ̄)/

続きは娘の大弐三位についてです下矢印