一昨日の夜、SMSにメッセージが入っていた。長野市在住の親族が急逝したと云う知らせだった。
昨日、とりあえずお悔やみに行ってきた。
長野市に行くには普通、東京駅から北陸新幹線に乗車する。しかし、この経路はとらないことにした。
①北陸新幹線は乗ったことがない。②東京駅に行くのに、長津田から田園都市線・半蔵門線を経由するが、田園都市線の朝のラッシュが半端ない。③東京駅の混雑ぶりが半端ない。
昨日は日曜日だったから、ラッシュの心配はないかも知れないが、コロナや人食いバクテリアに罹るおそれがある。
それで、時間はかかっても、八王子駅から特急あずさに乗って、松本駅で特急しなのに乗り継ぎして、行くことにした。
早朝、八王子駅まで車で送ってもらった。
八王子駅
まだ暗く、小雨が降っていた。
切符は、えきねっとと云うのを初めて使ってみた。予約できたつもりだったが、券売機の操作の仕方が分からない。みどりの窓口はまだ閉まっていた。改札口の駅員に尋ねると、スマホの画面を見て、えきねっとのメール届いていないですね、と云った。
確かに確認のメールは来ていない。予約の遣り方を間違えたらしい😅
駅員は、また何かあったら訊いてください、と云ってくれたが、どこか我を憐れむような視線が感じられた💧
券売機で、四苦八苦しながら、切符を買い求めた😓
乗車直前であったけれども、やっと切符が買えた。我はボービンではあるにもかかわらず、JR 在来線や新幹線はグリーン車を利用してきた。料金は普通車とさほど違わないし、少しでも混雑を避けたいからだ。
あずさのグリーン車座席数は少ない。近年、ますます減っていて、30人分しかない。すぐに満席になるし、最後列窓側の座席の確保など、まず無理な話なのだ。
昨朝は、奇跡的に、もっとも競争が激しいはずの一人用の座席が買えた(上りでは、この左右2席が最後列になる)。
実際、この車両には、数人しか乗っていなかった🙂
乗車したのは、土日の朝に不定期に運行されるあずさ75号で、あずさ1号やあずさ2号ほど混まない。ただし行楽シーズンなどは、一杯になるかも知れない。まだ紅葉の季節には早かった。
甲斐國
太陽光パネル😵
突然、車窓から異様な風景が視界に入った。田畑を無数の太陽光パネルが埋め尽くしている。あずさの車窓から見た初めての風景。日本の海や山が太陽光パネルで覆われてゆく🤢
信濃国へ入る。
上川
母の里を流れている。
茅野駅
母の里の駅。通過する。
上諏訪駅
父の故郷の駅。通過する。
松本駅
乗り換えに時間があったので、駅の外に出てみる。駅周辺の街が信じられないほど陳腐だ🤢
駅は人間でごった返していた。この群れには嫌悪しか感じない。観光客が多いようだ。日曜日のせいか。
三十数年前に来た時は古い駅舎だったが、もっと静かな駅だった。国鉄から私鉄に乗り換えて、安曇野の禄山美術館に行ったのだった。小さな質素な佇まいの美術館だった。禄山の彫刻作風はロダンやカミーユ・クローデルに似ていたが、絵画は明治期の日本の洋画家に共通する画風だった。
安曇野は、見渡す限り、金色の稲穂が波打っていた。収穫前の稲田を初めて見た。日本の美しい景色だった。
今の永田町人間稲田?
ー🤢
松本藩は大藩だった。豊かな実りが大藩を支えていたのだろう。
特急しなのに乗る。このしなのにはグリーン車が2両付いていた。車両は少し古いようだ。
この鉄道は中央西線と云うのか、篠ノ井線と云うのか? よく分からない。単線鉄道だった。
車内放送によると、善光寺平、千曲川、山並が揃って見える絶景だそうだ。
かわなかじまと云う駅を通過した。
犀川
この川に犀川と云う標識が見えた(駄目なはずの我の視力に驚いた)。古戦場。ここで川中島の合戦があったのだ。
越後の上杉勢と甲斐の武田勢がはるばるここに来て戦うと云うのだから、昔の人間はよほど元気があったに違いない。我などは、ただ電車に乗って来ただけで、疲れ果ててしまったではないか😔
長野駅
駅舎は和風テイストの建築物に変わっていた。駅舎内は名産土産店が多いが、それ以外は、特徴がない。
人混みは松本駅以上の混雑で、真っ直ぐ歩けないほどだった😓
善光寺付近に行くことにした。善光寺には駅から歩いて行けるが、タクシーに乗って善光寺下で降りた。疲れてしまったのだ😔
善光寺にはお参りしなかった。善光寺は日本最古の寺院の一つで、秘仏とされる阿弥陀如来像があるが、どうも寺が俗っぽい。我はただ昼食をとるために、ここに来たののだった😅
文政年間創業の名店と云う蕎麦屋に入った。鴨南蛮蕎麦を注文した。
注文は、パネル操作でするだった🫨
文政年間創業の老舗蕎麦店が?😳
それよりも、驚くべき不味さだった🤢
十割蕎麦でなく、二八蕎麦にしたが、蕎麦はベトベト、汁は鴨の香りがせずに、焦げ臭い異臭がした。
観光地の名店と云うのは、こんなものなのか😵
当庵近くの箱根そばの方がよほど美味しいのだが😠
善光寺下から歩いて、親族宅に向かう。
故人は長野市の名士だった。引退後も、自治会長などをしていた。人望がある人だった。
母にも、我にも親切にしてくれた人だった。
我が大学院終修了と同時に、母校の専任教員に就任すると云う、研究者にとっては稀な幸運を大変喜んで、この地の権堂と云う繁華街の川魚料理店に招いてくれた。岩魚など、川魚の美味を初めて御馳走になった。
故人は庭いじりが好きだったそうだ。
9日が葬儀と云うことで、9日にまた来ることにした。
続きは、その日の模様を書くつもり。そして群衆についても。