幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラーの教え」Ⅱ 岸見一郎 古賀史健
人は幸せになるために生きているのに、なぜ「幸福な人間」は少ないのか?
アドラー心理学の新しい古典「嫌われる勇気」の続編である本書のテーマは、ほんとうの「自立」と、ほんとうの「愛」。
そして、どうすれば人は幸せになれるか。
あなたの生き方を変える劇薬の哲学問答が、ふたたび幕を開ける。
第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし 「教育の目標は『自立』である」から。
哲人 さあ、どこからいきますか?
青年 いま、わたしが抱える喫緊の課題は、やはり教育です。 教育を軸に、アドラーの矛盾を暴いていきましょう。 アドラーの思想はその根本において、あらゆる「教育」と相容れないところがあるのですから。
哲人 なるほど、おもしろそうです。
青年 アドラー心理学には「課題の分離」という考え方がありますよね。 人生のあらゆる物事について「これは誰の課題なのか?」という観点から、「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える。
たとえば わたしが、上司から嫌われているとする。 当然、気持ちよくはありません。 なんとか好かれよう、認めてもらおうと、努力するのが普通です。
しかしアドラーは、それは間違っていると断ずる。 わたしの言動、また わたしという人間について、他者(上司)が どのような評価を下すのか。 これは その上司の課題(他者の課題)であって、わたしにコントロールできるものではない。 わたしが どれだけ好かれる努力をしても、上司は わたしを嫌ったままかもしれない。
そこで アドラーは言うわけです。 「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」。
そして「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」と。 他者の視線に怯えず、他者からの評価を気にせず、他者からの承認も求めない。 ただ自らの信じる最良の道を選ぶ。 さらには他者の課題に介入してはいけないし、自分の課題に他者を介入させてもいけないと。 はじめてアドラー心理学に触れる者にとって、大きな衝撃をもたらす概念です。
哲人 ええ。 「課題の分離」ができれば、対人関係の悩みは かなり軽減されます。
青年 さらに先生は、こうおっしゃいました。 それが誰の課題であるのか、見分ける方法は簡単である。 「その選択によって もたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」。 これを考えればいいのだと。 間違っていませんね?
哲人 間違っていません。
青年 あのとき挙げた事例は、子どもにとっての勉強でした。 子どもが勉強をしない。 将来を案ずる親は、勉強しなさいと𠮟りつける。 しかし、ここで「勉強しないこと」がもたらす結末 ーーー 要するに希望の学校に進めないとか、就職が むずかしくなるとか ーーー を最終的に引き受けるのは誰か? とりもなおさず、それは子ども自身であって、間違っても親ではない。 すなわち勉強は「子どもの課題」であり、親が介入すべき問題ではない。 これも大丈夫ですね?
哲人 ええ。
青年 さて、ここに大きな疑問が浮かんでくるわけです。 勉強は子どもの課題である。 子どもの課題に介入してはならない。 仮に そうだとした場合、「教育」とは なんなのです? われわれ教育者とは、どういう職業なのです? だってそうでしょう。 先生の理屈に従えば、勉強を押し付けるわれわれ教育者は、子どもの課題に土足で踏み込む、不法侵入の集まりですよ! ははっ、どうです、答えられますか?
哲人 なるほど。 教育者たちと アドラーについて語り合うとき、ときおり出てくる質問です。 たしかに勉強は子どもの課題である。 そこに介入することは、親といえども許されない。 アドラーの語る「課題の分離」を一面的にとらえると、あらゆる教育は他者の課題への介入になり、否定されるべき行為になってしまいます。 しかしアドラーの時代、彼ほど教育に力を入れた心理学者はいませんでした。 アドラーにとっての教育は、中心課題の一つであるばかりか、最大の希望だったのです。
青年 ほう、具体的には?
哲人 たとえばアドラー心理学では、カウンセリングのことを「治療」とは考えず、「再教育」の場だと考えます。
青年 再教育?
哲人 ええ。 カウンセリングも 子どもの教育も、本質的には同じです。 カウンセラーとは教育者であり、教育者とはカウンセラーである。 そう考えてもらっても構いません。
青年 ははっ、それは知りませんでした。 まさか わたしがカウンセラーだったなんてね! いったい どういう意味です?
哲人 大切なところです。 整理しながらお話ししましょう。 まず、家庭や学校での教育は、なにを目標になされるものなのか。 あなたの意見はいかがですか?
青年 ……ひと言では語れませんよ。 学問を通じて知識を修めること、社会性を身につけること、正義を重んじ、心身ともに健康な人間として成長していくこと……。
哲人 ええ。 いずれも大切なことではありますが、もっと大きなところで考えましょう。 教育をほどこすことによって、子どもたちに どうなってほしいのでしょうか?
青年 …… 一人前の大人になってほしい、ですか?
哲人 そう。 教育が目標とするところ、ひと言でいうとそれは「自立」です。
青年 自立…… まあ、そうとも言えるでしょう。
哲人 アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいという欲求、つまり「優越性の追求」を抱えて生きる存在だと考えます。 よちよち歩きの赤ちゃんが、二本足で立つようになり、言葉を覚え、周囲の人々と意思の疎通を図れるようになっていく。 つまり、人はみな「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。 これは根源的な欲求です。
青年 その自立を促すのが、教育だと?
哲人 はい。 そして身体的な成長のみならず、子どもたちが社会的に「自立」するにあたっては、さまざまなことを知っていかなければなりません。 あなたの言う、社会性や正義、知識などもそうでしょう。 無論、知らないことについては、それを知る他者が教えなければならない。 周囲にいる人間が援助していかなければならない。 教育とは「介入」ではなく、「自立」に向けた「援助」なのです。
青年 はっ、何だか苦し紛れの言い訳に聞こえますがね!
哲人 たとえば、交通ルールを知らないまま、赤信号と青信号の意味を知らないまま、社会に放り出されたらどうなるか。 あるいは自動車の運転技術を知らないまま、運転席に座らせることができるか。
当然、そこには覚えるべきルールがあり、身に付けるべき技術があるでしょう。 これは命に関わる問題であり、しかも他者の命をも危険にさらすかもしれない問題です。 逆に言うと、もしも地球上に ひとりも他者がおらず、自分ひとりで生きているのだとすれば、知るべきことはなく、教育も必要ありません。 そこに「知」はいらないのです。
青年 他者がいて、社会があるから、学ぶべき「知」があると?
哲人 そのとおりです。 ここでの「知」とは、学問だけではなく、人間が人間として幸福に生きるための「知」も含みます。 すなわち、共同体のなかで どのように生きるべきなのか。 他者と どのように関わればいいのか。 どうすれば その共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。 「わたし」を知り、「あなた」を知ること。 人間の本性を知り、人間の在り方を理解すること。 アドラーは こうした知のことを「人間知(にんげんち)」と呼びました。 ~~~
第二部 なぜ賞罰を否定するのか「問題行動の『目的』はどこにあるか」から。
問題行動の第一段階「賞賛の要求」 親や教師に向けて、またはその他の人々に向けて、「いい子」を演じる。 組織で働く人間であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。 それによって ほめられようとする。 入り口は、すべてここです。 個別の行為として考えた場合、彼らは なんの問題も無い「いい子」や「優等生」に映ります。 実際、子どもたちであれば 学業や運動に、会社員であれば 仕事に精を出すわけですから、ほめたくもなるでしょう。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。 彼らの目的は、あくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」なのです。 その取り組みについて、親や教師、上司や 仕事相手が いっさいほめなかったとしたら、どうなると思いますか?
彼らは「いいこと」をしているのではありません。 ただ「ほめられること」をしているだけなのです。 そして、誰からも ほめられないのなら、特別視されないのなら、こんな努力に意味はない。 そうやって とたんに意欲を失います。
彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身に付けていくのです。
さらに、周囲の期待する「いい子」であろうとするばかりに、カンニングや偽装工作などの不正行為に出てしまうのも、この段階の特徴です。 教育者やリーダーは、彼らの「行為」だけに目を向けるのではなく、その「目的」を見定めなければなりません。
問題行動の第二段階「注目喚起」 せっかく「いいこと」をしたのに、ほめられない。 学級のなかで特権的な地位が得るには至らない。 あるいは そもそも、「ほめられること」を やり遂げるだけの勇気や根気が足りない。 そういうとき 人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。 もはや彼らは、ほめられようとは思っていません。 とにかく目立つことだけを考えています。
ただ、ひとつ注意していただきたいのは、この段階における子供たちの行動原理は「悪くあること」ではなく、「目立つこと」だというところです。 学級のなかで、特権的な地位を得たい。 自らが属する共同体のなか、確固たる「居場所」が ほしい。 真の目的は そこです。
積極的な子供は、社会や学校の ちょっとしたルールを破ること、いわば「いたずら」によって注目を得ようとするでしょう。 授業中に騒いでみせたり、教師をからかったり、しつこく食い下がったり。 決して大人たちの逆鱗に触れるところまでは踏み込まず、学級の道化的な人気者として、教師や友達から愛されることも少なくありません。
また、消極的な子供たちは、学力の著しい低下を示したり、忘れものをくり返したり、泣いたりすることによって注目を得ようとします。 「できない子」として振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけです。 存在を無視されるくらいなら、叱られるほうがずっといい。 それが彼らの願いです。
問題行動の第三段階「権力争い」 ここで彼らの目的は「権力争い」に突入します。 誰にも従わず、挑発をくり返し、戦いを挑む。 その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。
特権的な地位を得ようとする。 かなり手ごわい段階です。
ひと言でいうなら「反抗」です。 親や教師を口汚い言葉で罵って挑発する。 癇癪を起して暴れることもありますし、万引きや喫煙に走るなど、平然とルールを破ります。 一方、消極的な子供は「不従順」によって、権力争いを挑んできます。
どんなに厳しい言葉で叱られようと、勉強や習い事を拒絶する。 大人たちの言葉に無視を決め込む。 別に、勉強したくないのでも、勉強が不要だと思っているわけでもありません。 ただ不従順を貫くことによって、自らの「力」を証明したいのです。
問題行動の第四段階「復讐」 意を決して「権力争い」に挑んだのに、歯が立たない。 勝利を収めることができず、特権的な地位を得ることもできない。 相手にされず、敗北を喫してしまう。 そうして戦いに敗れた人は、いったん引きさがった後に「復讐」することを画策します。
かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をするのです。
思い出してください。 賞賛の要求、注目喚起、そして権力争い。 これらは「もっとわたしを尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れです。
ところが、そうした愛の希求が かなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになるのです。 わたしを愛してくれないことは、もうわかった。 だったら いっそ、憎んでくれ。 憎悪という感情のなかで、わたしに注目してくれ。 そう考えるようになるのです。
「復讐」の段階に突入した子供たちは、誰からも称えられることはありません。 親や教師はもちろんのこと、級友からも憎まれ、恐れられ、徐々に孤立していきます。 それでも なお、「憎まれている」という一点で、つながろうとするのです。
「復讐」の段階に入った子どもたちは、正面きって戦うことは選びません。 彼らは「悪いことを目論む」のではなく、ひたすら「相手の嫌がること」をくり返すのです。
わかりやすいところでいうと、いわゆるストーカー行為は、典型的な復讐です。 自分のことを愛してくれなかった人に対する、愛の復讐ですね。 ストーカーとなる人たちは、相手が それを嫌がっていることくらい 十分理解しています。 そこから良好な関係に発展しえないことも、理解しています。
それでも「憎悪」や「嫌悪」によって、なんとか つながろうと画策するのです。
あるいは また、自傷行為や 引きこもりも、アドラー心理学では「復讐」の一環なのだと考えます。 自らを傷つけ、自らの価値を毀損していくことで「こんな自分になってしまったのは、お前のせいだ」と訴えるのです。 当然、親御さんは心配するし、胸を引き裂かれるような思いに駆られるでしょう。
子どもたちにしてみれば、復讐が成功していることになります。
暴力や暴言がエスカレートするのは もちろんのこと、非行グループや反社会的勢力に入って 犯罪に手を染める子どもたちも少なくありません。 また消極的な子どもの場合、常識では考えられないほど不潔になっていったり、周囲が嫌悪感を抱かざるをえないくらい グロテスクな趣味に耽溺するなど、復讐の手段は さまざまです。
問題行動の第5段階「無能の証明」 「特別な存在」として扱われようと、ここまで さまざまな策を講じてきたものの、どれも うまくいかない。 親も 教師も 級友も、憎むことさえしてくれない。 学級にも 家庭にも、自分の「居場所」を見出せない。
でも、親や 教師は、あなたに もっと勉強するように お説教したり、学校での態度や 友だち関係について、事あるごとに介入してくるでしょう。 無論、あなたを援助しようと思って。
周囲は あなたに もっと がんばってもらいたい と思っている。 やれば できるし、自分の働きかけによって変わるはずだ と期待している。
まさに その「これ以上わたしに期待しないでくれ」という思いが「無能の証明」に つながるのです。
「できるかもしれない」と 課題に取り組んで失敗するくらいなら、最初から「できるはずがない」とあきらめたほうが楽なのです。 そうすれば これ以上の失意に打ちのめされる心配はないのですから。
そこで彼らは、自分が いかに無能であるか、ありとあらゆる方法を使って「証明」しようとします。
あらかさまな愚者を演じ、なにごとにも無気力になり、どんな簡単な課題にも取り組もうとしなくなる。
~~~
そして「その問題行動は誰に向けられたものなのか?」「それは『あなた』です」と、「アドラー」は答えています。
~~~ 「アドラー心理学」では、人間の あらゆる言動を 対人関係の なか で考えます。 たとえば、リストカットなどの自傷行為に走る人が いたとき、その行為が なにも ない虚空に向かって なされている とは考えません。 誰かに向けて、自らを傷つけている。 「問題行動」の「復讐」で 見たように。 つまり、あらゆる言動には それが向けられる「相手」がいる と考えるのです。 ~~
あなたの受け持つ生徒たちが、家庭の中で どんな振る舞いをしているのか。 これは、その家庭の なかに いない われわれ には わかりえません。 しかし、おそらく学校と まったく同じ顔をしている わけでは ないでしょう。
親に見せる顔と、教師に見せる顔、友だちに見せる顔、先輩や 後輩に見せる顔、すべてが同じ という人はいないの ですから。
その生徒は、「あなたに見せる顔」の仮面を被ったときに、他の誰でもない「あなた」に向かって、その問題行動を くり返している のです。 親の問題では ありません。 ひとえに、あなたと生徒の なか で生じた問題なのです。
ともかく彼らは いま、あなたに向けて「この教師の授業は妨害してやろう」とか「この教師に与えられた宿題は無視しよう」と いった決心をしている。 もちろん、学校では問題行動を くり返していながら、「親の前では いい子に していよう」と決心している場合もあります。
あなたの目の前で。 あなたの視界に入るときを選んだ上で。 家庭ではない別の「世界」に、すなわち教室に、居場所を求めている。 ~~~
私の周りで、私に対して「問題行動」を起こしている人間(システムを含めて)の「行動理由の答え」がそのまま書かれているのが驚き。
大体の人が、2段階目「注目喚起」から3段階目「権力争い」の位置ぐらいで、「システムの人間」だと4段階目の「復讐」だろうか。
特に 友人だろうが、恋人だろうが、「結婚相手選び」なら、なおさら(親だ、子供だ、という人も多いが)「コミニュケーションを必要とする関係」を、知り合いでもない相手に「こんなやり方」で 求めてこられても、そこに「応える義務」は まったく無いわけだし。
本の中でも「こうなったら もう、利害関係のない、まったくの第三者に助けを求めるしかない、つまり他の教師や学校の外にいる人間、たとえば われわれ のような専門家を頼るしかないでしょう。」
「残念ながら、あなたに できることは ありません。 専門家に頼るしかないでしょう。 もっとも、無能の証明をはじめた子供たちを援助していくことは、専門家にとっても困難な道です。」と、書かれているし。
それこそ「先生と生徒」でもなければ「親子関係」でもないし、「相談できる専門家」もいないので、むやみに誰かの「機嫌取り」に走るのではなく、「他人は変えられない」と思って距離を置くか、関わらないようにするのが一番かな、ということかな。
第一部
アドラー心理学は宗教なのか
教育の目標は「自立」である
尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと
「他者の関心事」に関心を寄せよ
もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら
勇気は伝染し、尊敬も伝染する
「変われない」ほんとうの理由
あなたの「いま」が過去を決める
悪いあの人、かわいそうなわたし
アドラー心理学に「魔法」はない
第二部
教室は民主主義国家である
叱ってはいけない、ほめてもいけない
問題行動の「目的」はどこにあるのか
わたしを憎んでくれ! 見捨ててくれ!
「罰」があれば、「罪」はなくなるか
暴力という名のコミニュケーション
怒ることと叱ることは、同義である
第三部
「ほめて伸ばす」を否定せよ
褒章が競争を生む
共同体の病
人生は「不完全」からはじまる
「わたしであること」の勇気
その問題行動は「あなた」に向けられている
なぜ人は「救世主」になりたがるのか
教育とは「仕事」ではなく「交友」
第四部
すべての喜びもまた、対人関係の喜びである
「信用」するか? 「信頼」するか?
なぜ「仕事」が、人生のタスクになるのか
いかなる職業にも貴賤はない
大切なのは「与えられたものをどう使うか」
あなたに親友は何人いるか
先に「信じる」こと
人と人とは、永遠にわかり合えない
人生は「なんでもない日々」が試練となる
与えよ、さらば与えられん
第五部
愛は「落ちる」ものではない
「愛される技術」から「愛する技術」へ
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である
人生の「主語」を切り換えよ
自立とは、「わたし」からの脱却である
その愛は「誰」に向けられているのか
どうすれば親の愛を奪えるのか
人は「愛すること」を恐れている
運命の人は、いない
愛とは「決断」である
ライフスタイルを再選択せよ
シンプルであり続けること
新しい時代をつくる友人たちへ