\祝/東京ディズニーランド41周年!だからこそ語りたい、2人の重要人物!!! | Hot!More!Disney

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ようこそ!こんにちわ!

今回は東京ディズニーランド開業41周年記念ということで、先人たちにスポットを当てていきます!

この方々がいなければ、今のディズニーランドのオープンはあり得ませんでした……!

絶対に押さえておくべき人物を、お二方ご紹介します!

加賀美さんよりも前の社長たちです!

 

  全ての始まり~川崎千春~

 

OLC HPより引用

東京ディズニーランドのオープンで欠かすことのできない最初の人物は、川崎千春氏です。

すでに故人ではありますが、この方の熱意がなければ、絶対に東京ディズニーランドのオープンはあり得ませんでした。

2代目の社長である高橋政知氏の人生の師であり、初代社長です。

全てはこの方から始まります。

京成バラ園のバラの買い付けにアメリカに飛んだ、川崎師が見たのが、3年前にオープンしたカリフォルニアにあるディズニーランドでした。

そこから、川崎師は、ディズニーランドを日本に持ってくることを夢に見ます。

すごかったのが、夢に見てから、行動を起こし、ディズニーに働きかけを行っているところです。

1962年にディズニーを訪問しているようです。それ以前から打診をしていることは間違いありません。

1983年に東京ディズニーランドが開業していますから、20年以上の歳月がかかっています。

川崎氏は、1974年にディズニーと契約を締結し、東京ディズニーランドの誘致の実現をさらに推し進めます。

若干、運が良かった面があります。これは東京ディズニーリゾートを運営しているオリエンタルランドがライセンスで東京ディズニーリゾートを運営している点の話にもなります。

ざっくりいうと、ディズニーが傾いてました。なので、お金をかけずに、お金が欲しかった。

この状況もあり、現在の運営スタイルである、ライセンスによる東京ディズニーリゾートの運営となり、ディズニーランドの誘致も進んだ側面があります。

しかしながら、1978年、志半ばにして、オリエンタルランド社長を退任することとなってしまいます……

理由は京成電鉄が傾いたから。そちらの立て直しのために、集中するために、あえなく退任となりました。

しかし、川崎氏の情熱は、ある人物に引き継がれていきます。

この人物の存在は、非常に大きい!

その方が……

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  本物を作れ! ~高橋政知

 

OLC HPより引用

日本人初のディズニーレジェンドでもある高橋政知。

この方は東京ディズニーランドのオープンで、絶対に語っておかなければいけない人物です。

高橋氏がオリエンタルランドに入社した当時(加賀美氏もまだいない)、オリエンタルランドはたった3人しかいませんでした。

それも京成電鉄の中に、机が3つ置かれているだけ。

その3人の中で、実働部隊は高橋氏しかいませんでした。

……ですが、この高橋氏が剛腕を振るいます。

正直、高橋氏はディズニーランドに興味なんてありませんでした。

しかし、川崎氏の情熱に当てられ、川崎氏の情熱は高橋氏に受け継がれていきます。

高橋氏がオリエンタルランドに来た理由は、浦安地域の埋め立てを実現させるためです。

埋め立てるためには、漁業をされている方々を説得しなければなりません。彼らの仕事場を奪うわけですから。

当初、数年はかかかると見込まれていました。自分に置き換えてください。住んでいる家を退かせ、と言われて、はいわかりました!とはなりませんよね。

しかも、東京ディズニーランドなどという、わけのわからない代物を作るため、とか言い出すわけですから。

ですが、高橋氏はなんと、この交渉を半年でまとめてみせます。めちゃくちゃです。

高橋氏はこの方々に、本当に丁重に、大切に、尊敬の念を持って、接待等をし、川崎氏の情熱は受けた説明を繰り返しました。

ここで役に立ったのが「お酒」です。

高橋氏は酒豪でした。相手も酒豪。とにかく酒を酌み交わしては、交渉を続けたようです。最も、交渉をしないで酒を酌み交わすこともあったそうです。

高橋氏は埋め立て事業の目途を立て、お役御免と思っていました。

OLC HPより引用

しかし、先述のとおり、川崎氏が退任を余儀なくされました。

代わって、2代目社長に就任したのが、高橋氏です。

実際に建設が始まると、高橋氏の真骨頂がさらに発揮されていきます。

とにかく【本物】にこだわったのです。

川崎市の情熱は、完全に高橋氏の情熱となっていました。

東京ディズニーランドの当初の事業費は1000億円でした。しかし、気が付けば、1800億円、つまり倍近くまで事業費が膨れ上がったのです!

しかし、高橋氏はひるみません。

【本物】を再現するために、お金に糸目をつけませんでした。

お金が絡めば、関係者からの非難も多くなる……それでも、その矢面に常に立ち続けたのです!

どれほど文句を言われようが、本物の実現のために戦い続けたのです!

そして1983年4月15日、東京デズニーランドがオープンとなります。東京ディズニーランドじゃなく、あえてこの表記にさせてもらいます。

OLC HPより引用

この功績が称えらえ、1998年、日本人初のディズニーレジェンドになり、その名を東京ディズニーランドのワールドバザールに刻まれることとなりました。

高橋氏が少しでも妥協していれば、今の東京ディズニーランドの姿はありませんでした。

埋め立てをし場所を作り、東京ディズニーランドを立てたのは高橋氏なのです。

始まりは川崎氏の情熱でしたが、その情熱が高橋氏の心を燃やし、今の東京ディズニーランドが誕生したのです!

東京ディズニーランドが開業した日、川崎氏は涙ぐみ、それを見た高橋氏も感激の面持ちだったそうです。

 

 

 

 

  まとめ ~まっちゃのひとりごと~

 

高橋氏の情熱もまたすさまじかったエピソードを追記しておきます。

まず、県知事を怒鳴りつけています。

テーマパークを誘致するなんて、めちゃくちゃなことを言い出したオリエンタルランドに県庁は難色を示します。

物事を進めるには、色々と許可だったりが必要なので。(詳しく説明すると長くなるので割愛)

その県知事を思いっきり、怒鳴りつけています。すごいですね。

さらに、政治家への献金などなど、会社の経費として落としにくいお金の自腹を切っています。

婿に行った先が資産家だったこともありますが、骨董品など、色々なものをお金に変え、対応していたようです。

家まで売っていますから、その情熱がどれほどのものか、口にするまでもありません。

その家は現在、ニュージーランド大使館になっているそうです。(すんごい広い)

奥様の理解がなければ、東京ディズニーランドの実現もまたなかったと思います。奥様にも感謝を。

 

といわけで、東京ディズニーランドの重要人物である、2人についてまとめました。

まとめてますので、この物語はまだまだ、たくさんの物語があります!!!!!

それだけは、強調させてください!!!!!

わたしたちが当たり前のように楽しんでいる東京ディズニーランドは、波乱万丈の中、二人の人物の猛烈な熱意によって誕生したことを、頭の片隅にでも覚えておいてください。

 

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