弘田澄男ベスト10 | ロロモ文庫

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弘田澄男は高知高では1966年、2年生の時に春のセンバツ大会に中堅手として出場して、2回戦で米子東高に敗退し、夏の予選南四国大会では準決勝で土佐高に敗れ、1967年の春のセンバツ大会では三塁手として連続出場し、決勝に進出しますが、津久見高に延長12回の末、1対2で惜敗し。同年夏の予選南四国大会では準決勝で徳島工に敗れます。

高校卒業後は、社会人野球の四国銀行に入行し、補強選手として都市対抗野球に4年連続出場し、1971年の都市対抗野球では丸善石油の補強選手となり二番打者として活躍し、決勝では新日鐵広畑に敗れますが、チームの準優勝に貢献し、1971年のドラフト3位でロッテオリオンズに入団します。

2年目の1973年から中堅手のレギュラーに抜擢され、7月11日の日拓ホームフライヤーズ戦ではサイクル安打を達成し、初の規定打席(リーグ10位、打率2割9分5厘)にも到達し、同年から5年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。1974年は8月28日の南海戦でランニング満塁本塁打を記録。同年はリーグ優勝を果たし、中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでは第1戦の4回表にソロ本塁打、第2戦の8回表に同点タイムリー、第4戦の6回裏にソロ本塁打、第6戦では延長10回表に日本一を決める決勝適時二塁打を放ち、シリーズMVPを獲得します。

1975年は打率3割0分1厘(リーグ5位)と初めて3割越えを果たし、リーグ最多の148安打を記録し、同年から2年連続でベストナインに選出され、1980年には自己最高の41盗塁を記録しますが、1984年は藤倉一雅との交換トレードで阪神タイガースに移籍します。

移籍1年目の1984年は主に2番打者として打率3割1分3厘(リーグ9位)を記録し、1985年はチームの21年ぶりのリーグ優勝に貢献し、西武ライオンと対戦をした日本シリーズでは初めて指名打者制が採用されますが、セ・リーグ球団初の指名打者として全6試合「2番・指名打者」として先発出場し、チームの日本一に貢献し、1988年限りで引退し、通算1592試合に出場して、2割7分6厘76本塁打487打点294盗塁をマークしたわけです。

10位は85試合に出場し2割9分6厘5本塁打22打点2盗塁をマークした1985年。9位は101試合に出場し2割8分5厘4本塁打31打点13盗塁をマークした1979年。8位は107試合に出場し2割5分8厘7本塁打35打点22盗塁をマークした1982年。7位は113試合に出場し2割8分5厘4本塁打31打点26盗塁をマークした1976年。6位は122試合に出場し2割6分5厘5本塁打40打点29盗塁をマークした1981年。

5位は116試合に出場し2割6分2厘5本塁打43打点41盗塁をマークした1980年。4位は110試合に出場し3割1分3厘7本塁打34打点6盗塁をマークした1984年。3位は123試合に出場し2割9分5厘9本塁打60打点26盗塁をマークした1974年。2位は127試合に出場し2割9分5厘13本塁打50打点22盗塁をマークした1973年。1位は126試合に出場し3割0分1厘11本塁打54打点35盗塁をマークした1975年となるわけです。