島谷金二ベスト10 | ロロモ文庫

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島谷金二は高松商では3年次に、三番打者、遊撃手として1962年の夏の甲子園北四国大会決勝に進出しますが。西条高に抑えられ敗退。高校卒業後は、社会人野球の四国電力に進み、補強選手としての出場を含め都市対抗野球大会に4年連続出場し、サンケイスワローズ、東映フライヤーズ、東京オリオンズと3度ドラフト会議で指名されながら入団拒否しますが、1968年のドラフト会議で中日ドラゴンズから9位指名を受け入団。ドラフト4回指名は、藤沢公也の5回指名に次ぐ日本プロ野球歴代2位の記録となっています。

四国電力時代は二塁手でしたが、プロ入り後は三塁手に転向し、ルーキーイヤーの1969年からレギュラーに抜擢され125試合に出場し、規定打席(27位、打率2割1分0厘)にも達し、10月10日の巨人戦では金田正一が400勝を達成した場面の最後の打者となりました。

1971年には打率2割5分7厘17本塁打と打撃も向上し、1973年には21本塁打を記録し、1974年はシーズン中盤に故障欠場しまsが、中日の20年ぶり2度目となるセ・リーグ優勝に貢献し、優勝を決めるウイニングボール(山下大輔のサードライナー)を捕球し、ロッテオリオンズとの日本シリーズでは、全6試合に先発出場しますが、17打数3安打2打点と大きな活躍はできませんでした。

1975年には130試合フル出場し、ダイヤモンドクラブ賞を獲得し、1976年も129試合に出場し、21本塁打を記録しますが、1976年オフに森本潔、大石弥太郎、小松健二との3対4のトレードにより、稲葉光雄、大隅正人と共に阪急ブレーブスへ移籍します。

1977年はシーズン後半は四番打者に定着し、打率3割2分5厘(有藤道世に4厘差のリーグ2位)を記録し、2度目のダイヤモンドグラブ賞を獲得、リーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズは全5試合に四番打者として出場し、第1戦では2安打2打点、第3戦では加藤初から本塁打を放つなど、チーム日本一に寄与します。

1978年、1979年はベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。1978年のヤクルトとの日本シリーズでは24打数11安打6打点、第6戦では西井哲夫から本塁打を放ちシリーズ打撃賞を獲得。1979年には打率3割1分2厘(10位)、102打点(加藤英司に2打点差の2位)を記録し、1982年オフに現役引退し、通算1682試合に出場し、2割6分9厘229本塁打781打点72盗塁をマークしたわけです。

10位は126試合に出場し2割4分5厘13本塁打45打点8盗塁をマークした1972年。9位は112試合に出場し2割6分6厘16本塁打66打点5盗塁をマークした1980年。8位は129試合に出場し2割5分7厘17本塁打50打点7盗塁をマークした1971年。7位は129試合に出場し2割7分8厘21本塁打54打点6盗塁をマークした1976年。6位は119試合に出場し2割6分5厘21本塁打58打点8盗塁をマークした1973年。

5位は114試合に出場し2割8分2厘23本塁打64打点3盗塁をマークした1981年。4位は130試合に出場し2割8分0厘20本塁打76打点9盗塁をマークした1975年。3位は123試合に出場し2割9分8厘22本塁打76打点5盗塁をマークした1978年。2位は130試合に出場し3割2分5厘22本塁打74打点3盗塁をマークした1977年。1位は127試合に出場し3割1分2厘27本塁打102打点4盗塁をマークした1979年となるわけです。