中西清起ベスト10 | ロロモ文庫

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中西清起は高知商業では、1年夏、2年春、3年春夏の4度にわたって甲子園に出場し、1年生時の1978年夏の甲子園は、1年上のエース森浩二の控え投手として出場し、決勝でPL学園に敗退し、この大会では2試合に登板。1979年春のセンバツは右翼手、控え投手として出場し、2回戦で浪商に惜敗し、自身の登板機会はなく、1980年春のセンバツでは、エース、四番打者としてチームを牽引し、決勝で帝京高の伊東昭光に投げ勝ちって優勝。同年夏の甲子園は2回戦で箕島高に敗退します。

高校卒業後はリッカーに入団し、1981年の都市対抗野球では準々決勝に進出し、東京ガスに敗退しますが、若獅子賞を受賞。1982年の大会では明治生命、1983年の大会では熊谷組の補強選手として出場し、1983年ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けて入団し、ルーキーイヤーの1984年は一軍公式戦33試合に登板します。

1985年には「バックスクリーン3連発」で知られる4月17日の巨人戦で9回表無死から登板。ウォーレン・クロマティと原辰徳からの2者連続本塁打で1点差に迫られた福間納の後を受けての登板でしたが、後続の打者を2者連続奪三振を含む三者凡退に抑えたことで、一軍初セーブを挙げ、その後は守護神として活躍し、10月16日のヤクルト戦では、同点の9回裏から登板し、チームが勝つか引き分けるかで21年振りのセリーグ優勝が決まるという状況で、ヤクルト打線相手に2イニングを抑え「胴上げ投手」になり、レギュラーシーズンでは11勝19セーブの好成績を挙げた末に、リーグ最優秀救援投手のタイトルを獲得します。

1986年以降もクローザーとして活躍し、1989年にはシーズンの途中から先発に転向し、一軍公式戦通算で10勝5セーブを記録するとともに、自身最初で最後の規定投球回数もクリア。1992年以降は先発中継ぎ抑えと便利屋的なポジションになり、1996年に現役を引退し、通算477試合に登板して、63勝74敗75セーブ防御率4.21をマークしたわけです。

10位は17試合に登板して5勝6敗0セーブ防御率4.92をマークした1990年。9位は31試合に登板して2勝5敗3セーブ防御率4.76をマークした1992年。8位は33試合に登板して4勝2敗0セーブ防御率6.63をマークした1995年。7位は46試合に登板して3勝9敗3セーブ防御率3.30をマークした1994年。6位は33試合に登板して3勝3敗11セーブ防御率3.62をマークした1993年。

5位は46試合に登板して8勝9敗15セーブ防御率4.45をマークした1988年。4位は61試合に登板して6勝8敗14セーブ防御率3.91をマークした1987年。3位は61試合に登板して8勝9敗5セーブ防御率2.94をマークした1986年。2位34試合に登板して10勝10敗5セーブ防御率4.00をマークした1989年。1位は63試合に登板して11勝3敗19セーブ防御率2.67をマークした1985年となるわけです。