筒井康隆「裏小倉」ベスト10(9) | ロロモ文庫

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筒井康隆の短編「裏小倉」は小倉百人一首のパロディで、高校時代の冬休みの宿題に百人一首を覚えさせられたロロモには想い出深い短編でありますが、なんせ百人一首は百句もあって、しかも有名な句は前半に集中しているので、筒井康隆も前半はかなり気合を入れてパロってますが、後半になってあからさまに投げやりになっているのがイヤハヤ南友な状態となっているわけです。

10位は後徳大寺左大臣が詠んだ「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」の大意は「ほととぎすが鳴いた方を眺めると、その姿は見えずにただ有明の月が残っている」でありますが、筒井康隆は「せろにあす もんくのかたを ながむれば ただあめだけが うれのこりける」とパロディし、「「せろにあす」は文句の枕詞。ぶつぶつ不平を言っている者があるので、誰かと思って見たら、売れ残りの姉であった」と解釈したわけです。
9位は道因法師が詠んだ「思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり」の大意は「つれない人を思い、悩み悲しんでもやはり命は長らえているのに、つらさに耐えきれずに流れ落ちるのは涙であった」でありますが、筒井康隆は「おもいきれ いずれいのちは ないものを むきになるのは あみだなりけり」とパロディし、「あみだくじで死ぬ人間を決めようとしている情景らしい」と解釈したわけです。
8位は皇太后宮大夫俊成が詠んだ「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」の大意は「世の中というものは逃れる道は無いものなのだ。深く思いこんで入ったこの山奥にも、鹿が悲しげに鳴いている」でありますが、筒井康隆は「よのなかに みちがなければ おもいしる やまのおくにも なんにもなくなる」とパロディし、「不能」と解釈したわけです。
7位は藤原清輔朝臣が詠んだ「長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」の大意は「もし生き長らえたら、つらいことの多いこの頃も懐かしく思い出されるのだろうか。つらかった過去も今では恋しく思い出されるのだから」でありますが、筒井康隆は「なくなれば またくいものや しのばれる うしがいたよぞ いまはこいしき」とパロディし、「食糧危機の歌らしい」と解釈したわけです。
6位は俊恵法師が詠んだ「夜もすがら もの思ふころは 明けやらぬ ねやのひまさへ つれなかりけり」の大意は「一晩中つれない人を思って物思いをしているこの頃は、なかなか世が明けずに寝室の隙間までも無情に感じられる」でありますが、筒井康隆は「よももけら もけおもろけは もけやらで もやのかまさけ もれもけりけり」とパロディし、「不能」と解釈したわけです。
5位は西行法師が詠んだ「嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな」の大意は「嘆けといって月は私に物思いをさせるのであろうか。そんな訳もないのに、かこつげがましくこぼれる私の涙よ」でありますが、筒井康隆は「なげけこけ くきやかものこ こけかする かこけかけこけ こけかきいきい」とパロディし、「不能」と解釈したわけです。
4位は寂蓮法師が詠んだ「村雨の 露まだ干ぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮」の大意は「村雨がひとしきり降り過ぎ、その露もまだ乾ききっていないまきの葉のあたりに、霧が立ち上っている。そんな秋の夕暮れであるよ」でありますが、筒井康隆は「むらじゅうの ほこりがぜんぶ まきあがり ちりたちのぼる あきのおおそうじ」とパロディし、「大掃除の風景である」と解釈したわけです。
3位は皇嘉門院別当が詠んだ「難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ 身を尽くしてや 恋ひわたるべき」の大意は「難波の入江に生えている蘆の刈根の一節のように、一夜の契りのためにわが身をつくして、これからずっと貴方を恋い続けなければならないのでしょうか」でありますが、筒井康隆は「なぜはえた あしのつけねの ひとつかみ みおとしていた このわたふきびょうかな」とパロディし、「綿吹き病の歌である」と解釈したわけです。
2位は式子内親王が詠んだ「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の大意は「私の命よ、絶えるならばいっそ絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、耐え忍ぶ力が弱って人に知られてしまうから」でありますが、筒井康隆は「たまたまよ こりゃたまんねえ たまらえば たまげるほどに よわりもぞする」とパロディし、「不能」と解釈したわけです。
1位は殷富門院大輔が詠んだ「見せばやな 雄島の海人の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず」の大意は「貴方にお見せしたいものですね、この血の涙のために色の変わった私の袖を。あの雄島の漁夫の袖でさえ、ひどくぬれはしましたが色は変わりませんでした」でありますが、筒井康隆は「みせてくれ しじゅつのあとの きずぐちが ぬれにぞぬれて いろはかわらず」とパロディし、「まだ血が出ているらしい」と解釈したわけです。