2022年GWに訪ねたイラクの旅を綴っています。現地で書いていた記事に写真を追加し、大幅に追記しています。

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引き続きバビロニア遺跡についてです。私はここに来ることを実に30年以上も熱望していました。隅々までじっくり観察したいと思います。

 

 

 

 

 

 

今度は、新バビロニアの歴史についてちょっと!

 

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古代バビロニア王朝崩壊後、メソポタミアを統一した北のアッシリアですが、滅びてもなお圧倒的な求心力を誇るバビロニアに格段の配慮と警戒をしていました。バビロンはその政治的・宗教的な卓越性に加え、アッシリアから与えられた各種の特権により国際商業の中枢として繁栄を続けます。

 



あるとき、バビロニア人は東方のメディア人(現イラン)と同盟を結び、紀元前612年にはアッシリアの首都ニネヴェ(イラク北部)を陥落させ、再び全メソポタミアをバビロンの支配下に収めます。


 

新バビロニア時代の王ネブカドネザル2世(在位:前604年-前562)は、アッシリア残党を支援したエジプト支配下のシリアを弾圧したり、旧約聖書にあるバビロン捕囚の実行者としても有名です。


 

彼は紀元前597年にエルサレムを占領すると、王エホヤキンほか有力なユダ人をバビロンへ連行します。この結果ユダ王国は滅亡。さらにネブカドネザル二世はフェニキアの都市ティルス(現レバノン)や周辺の王国も併合します。


 

そして、ネブカドネザル2世は建築活動を熱心に行った事が、大量に残された建築記念碑文に刻まれています。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、

 

 

バベルの塔のモデルとなったともされるジッグラトが含まれます。

 


バベルの塔の想像図。

 

 

 

 

 

 

 

ドバイのブルジュ・ハリファも遠くから見るとバベルの塔。それくらい高かったのでしょうし、アラブ人にとって憧れのタワーなのだと思います。

 

 

ブリューゲルの描いた「バベルの塔」を私が初めて観たのは子供のころ。社会か美術だかの参考書に載っていたように思います。そして、ブリューゲルの描いたそれを見たとき、「こ、これは。。」と懐かしく感じたのを覚えています。初めて観たのに不思議に思いました。

 

その後、新宿のセゾン美術館で「ボイマンス美術館展」という催事があり、日本で現物を初めて観たのをキッカケに、ウィーンにある美術史美術館2回、ロッテルダムにあるボイマンスにも観に行くほどブリューゲルのバベルの塔にハマりましてね。若い頃、部屋にもしばらく大きなポスター貼ってたな。笑 下の写真はウィーンで買った絵葉書。まだ持ってる。



 

現在発掘調査の行われているバビロンの遺構は、大部分がネブカドネザル二世の治世のものなのですよ。

 

 

今となっては日干しレンガが崩れ、再建されていないこんなとこばっかりです。下の写真も大きなお城だったのですよ。

 

 

これは想像図ですが、きっと新バビロニア王国はこれくらいとにかく繁栄を極めていたのですよね。

 

 

新バビロニア王国後、ペルシア帝国アケメネス朝がキュロス2世のもとで勃興しますが、彼は何かとバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用していました。 

 

 

 

 

 


 

ちなみに、新バビロニア時代に強制移住させられたユダ人はキュロスの時代に故郷への帰還します。

 

 

アケメネス朝の配下にあっても、バビロニアは紀元前522年10月にネブカドネザル3世、紀元前521年にはアルメニア人とされるネブカドネザル4世が立ち、相変わらず繁栄を維持します。

 

 

ペルシャ帝国の後継者クセルクセス1世(在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在しました。

 

 

ペルシャ帝国がアレクサンドロス3世による東征で敗北しアケメネス朝が瓦解するも、インド北西部までを征服したアレクサンドロス3世はここバビロンで病死しています。彼もバビロンを好きな一人だったのですね。


 

アレクサンドロス大王の死後、セレウコス1世がセレウコス朝を起こします。新たなバビロニアの中心としてセレウキアを建設すると、商業的中心としてのバビロンの人口は徐々に減り始め、建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用されてしまいました。

 

 

その後もバビロニアは中東の政治・社会・経済における中心の一つではありましたが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化にほんの少しの痕跡を残しつつ終焉を迎えました。


 

バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られます。

 

 

 

 

 

 

バビロンが完全に放棄された年代は明確ではないですが、最末期の住民の数は少なく、そこに残っていたのはアッシリア人でもバビロニア人でもなくユダヤ人だったらしいです。今も昔も商業地にユダヤ人ありですね。



 

シュメール以来、バビロニアでは数多くの神々が信仰されました。偉大な神々は「天空」「大気」「大地」「深淵」「冥界」「豊穣」などの神性を有し、各都市に固有の守護神でした。バビロニアで信仰された主要な神々をご紹介しますと、(左側がシュメール語名、右側がアッカド語(バビロニア語))

・アン/アヌ:天空神であり最高神。シュメール語でアン(An)は「天」。


・エンキ/エア:地下の清水の大洋神。知恵・魔術・呪文などの属性と結び付けられた。信仰の中心はエリドゥで、『アトラハシス叙事詩』や『ギルガメシュ叙事詩』の洪水神話で大洪水から人間を助ける好意的な神。


・エンリル:メソポタミアのパンテオンにおいて最も重要な神の1柱で、信仰の中心はニップル。その重要性からイシン・ラルサ時代にはニップル市が各国の争奪の対象となったとも。


・ウトゥ/シャマシュ:太陽神。正義を司る神とされ、信仰の中心はシッパルとシュメールのラルサ。
・アマルウトゥ/マルドゥク:古代からバビロン市の守護神。農耕神であったと考えられている。


・イナンナ/イシュタル:バビロニアの全時代を通じて最も重要な女神であった。イシュタルと言う単語は元来金星を表す。後世のビーナスですね。


・スエン/シン:月神。信仰の中心はウル。


・ネルガル:冥界の神。
 

・ナブー:書記の神。「天命の書板」に人間の運命を記す書記であると共に知恵の神でもあった。ボルシッパが中心的な聖所。

 

 

皆様もどれか一つくらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

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あぁ。3,000年前に遡って、バビロニアの繁栄していた時代を見てみたいです。せめてシュメール人がカメラかビデオを発明していれば。。。爆




これはオリジナルのライオンです。城の前にあります。城はもうないのですが。



バビロニアはこのギザギザが特徴的です。中東地域でも見られますが、あれはバビロンの真似です。



こちらは修復されたネブカドネザル二世の宮殿。



この辺一体は、イラク戦争のときに米軍がキャンプを置き、グチャグチャにされてしまった過去がありましてですね。何度も書きますが、あれは米国による侵略戦争で、罪のないイラク人が米軍によって100万人も殺されました。これ私は生きている限り許さない。



歴史ない国の人間に、歴史の重みなど分かるわけもなく、バビロニア遺跡も所々破壊された挙げ句、遺物を持ち去られました。盗み出された文化財は、2021年になって漸く、米国からイラクへ返還されました。およそ17,000点もあったそう。米国だけでなく英国からも数万点が返還されたようです。でもそれは、盗まれた遺物のごく一部なのだとか。




ドサクサに紛れてバクダッドのイラク美術館からも盗まれているので、被害は甚大です。これ、バビロニア遺跡に落書きされています。米国は重く受け止めるべき事案ですよ。


   

さて。あちらに見えるのは、かの有名な元大統領の故サダム・フセインさんが建てた宮殿です。最初にバビロニア遺跡に来たときに訪ねました。

 

 

ここバビロニア遺跡を見下ろす絶好の立地。裏にはユーフラテス川の流れるなんとも静かで美しい眺めですよ。

 

 

隅々まで一通り見学しましたので、風がかなり強いですが、フルートを吹けそうな風の弱い場所を探します。


ガイドと言ってますが、後に出てくる守衛です。

 

 

 

 

 

 


ところで、ここに来て思ったことがあります。メソポタミアは「文明のゆりかご」とされ、あらゆる文明が発祥したことになっていますが、それ真実かなぁ?

 

 

 

 

 

 

戦争続きだったこともあり、イラクは日本と同じくここ数十年は失われていましたが、それを引いても今のイラクを見て、ホント失礼ながら世の文明を起こすような人々には思えないのですよ。それに比べ日本人の産業力、発明力は、どの国からも抜きん出ている。思考を物体化できるその技術力は他民族の遥か上を行ってます。

 

 

 

 

 

 

現代のほんの一例を挙げますと、例えばカメラ。どんな国を訪ねても、海外旅行客の九割五分は日本製のカメラをぶら下げている。どんな国へ行っても日本車を見ない日はない。変電、精油、半導体、ミクロからマクロまであらゆるものすべて供給できるこの日本人の技術力は他国に類を見ない。

 

 

 

 

 

 

時代はうんと遡り、環境リスク(地震や台風)が多いうえ、あまりにも年月が経ちすぎて完全に風化してしまっていますが、日本の縄文時代も相当な文明が発達してたんじゃないの?もっというと、世界の文明は日本の縄文から発出したのでは?

 

 

 

 

 

 

そして縄文時代、大陸から弥生が入ってきて「柔和的に共存していった」などと現代の日本史は表現してるけど、実際はモンゴル並みのジェノサイドで破壊し尽くされ虐殺されまくったんじゃないの?緩く共存したなら、日本各地に分布していた縄文人が北や西に追いやられることなどなかったでしょうに。もっと遺物もあるはずだ。綺麗事は要らないので、その辺り吉野ケ里でもなんでもいいからガッツリ調査してほしいものです。



 

 

 

 

ここバビロニア遺跡に来て、そんなことを思いました。