2011年6月に訪れた中東の旅のあとの転職活動の顛末です。







レバノンの首都ベイルートのスタバで、ボケボケと時間を潰していたときに出会ったレバノン中銀のエリートたちに仕事を誘われ、真剣に転職を考えます。







中東の旅から日本へ帰国し、ヨルダン1日目以来電源を入れていなかった携帯電話をやっと充電します。






 

携帯電話の充電ケーブルが爆発し、電池切れとなりましたので、日本へ帰国するまでメールを見ることができませんでした。PCも持って行ってなかったので、完全にアナログ世界で旅をしていたのですよね。













メールを見ると、レバノン中銀GMから何通も入っています。

 

 


 


「旅は楽しんだかい?」
「戻ったらすぐにCV(業務経歴書)を送ってください。」
「まだ日本に戻っていませんか。」





「本気なんだ?」





日本に戻った旨一報を入れ、「これからCVを書きます。」と返信。




まあ、色々と考えました。


 

 

 

 

先日書いたように、この頃、日本での仕事が絶好調だったこと。イスタンブルのホテルもまま面白そうなこと。仕事するとしたら業務内容のこと。語学のこと。住まい。親のこと。





一つ引っかかってたのは、こちらのレバノン記事でも書きましたように彼ら、プログラマーが欲しいのでは?ということ。

 


 

 

 

 

 

これ日本でもよく聞かれるのですが、システムエンジニア(SE)とプログラマー(PG)は同じではなくてですね。別の職業なのです。システムエンジニアはシステム設計をする者で、プログラマーはその名の通りプログラミングをする人。





最近はITの幅がぐんと広がり、SEも専門的な分野に細分化されましたが、基本的には設計者。





家の一戸建てをイメージしてもらうと分かりやすいと思いますが、SEは建築士で、プログラマーは大工さんです。






建築士は家の設計を行いますが、実際に家を建設するのは大工さんですよね。それと同じで、SEはシステム設計し、プログラマーはその設計書に従ってプログラミングする。SEもプログラミング技術がないと設計ができませんので多少は組めるのですが、基本的にはやりません。つまり私はプログラミングはできない。






レバノン銀行の彼らに、やたらとプログラム言語のことを聞かれ、何度も「プログラマーじゃない」ということを伝えたつもりなのですが、そこ、理解してくれているかが不明。





これは、帰国後のやりとりで何度か確認もしているのですが、「問題ない」の一点張り。ホントか?

 

 

 

 

 

まあ、そのような細かいところも確認しつつ、並行して、日本にいながら外資で転職を繰り返してる友人に、英語でのCV(業務経歴書)の書き方とノウハウを教わりました。





そして、イスタンブルの件もあり上述以外も色々と悩みましたが、

 

 

 



「イスタンブルのホテルはまだまだ先の話」
「これから、どうなるかなんて分からない」
「ベイルートのレバノン中銀は今まさに現在進行形」
「中銀で働けるなんてこと、日本にいたらまずない」
「この機会を逃したら、もう一生そんなチャンスない」






「ベイルート、行こう」

 

 


 


と決心。




7月の後半に入ってGMへCVをメール送付したのですよね。




彼らは8月とその前後は夏休みと言っていたので、返事は早くても9月半ばかなと思っていました。この時点では不確定要素強く、会社に辞意は告げていません。





あと、CVを送る際にもう一つ、大きな懸念事項がありました。

 

 

 

 

 

シリア情勢です。





この旅でヨルダンに着いた頃、シリアでは市民運動が起こっており、シリアに派遣されていたJICAも一時退避になったとM娘から聞くなど、緊迫度が増しているように感じました。






しかし、それでもアンマンでM母娘と話していた頃は、まだ市民が武器を持たずに道路を行進する域を越えていませんでした。







M娘に「この騒動が収まったら、私がアンマンに派遣されてる間にシリアへ旅行に行きましょう。」 と言われていたくらいですので、すぐに収まると思っていたのですよ。




しかし、日本に帰国する頃にはシリア政府軍が出てきて衝突し始めていた。





7月に入ると反政府組織が軍を設立し、沈静化するどころか激化します。





8月になると政府による大規模な弾圧が起こるとともに、米国がシリア反政府組織へ裏で5億近い資金援助をし、リビア同様、米国が大きく絡んでいることが示唆されました。これは長引くぞと。





9月。

 


 

 

 

シリア情勢は一段と悪化。





レバノンはシリアの隣国のため、少しずつ難民が流入し始め、日を追って増えていきます。





さらに、難民に紛れてヒズボラがレバノンへ入国し、レバノンに潜伏していた親シリアのヒズボラとともに動き始めた。
*ヒズボラ(ヒズブッラー)は、レバノンのアリーシーア政治組織、武装組織です。







そうなるとイスラエルが動き始めます。ヒズボラ目掛けて攻撃し、レバノンも非常事態に。このとき、日本人在住者に外務省から退避勧告が出たような覚えがあります。





こうやって、隣国の出来事をきっかけにレバノンは再び政情不安に陥るのです。






そんななか、私はこの状況下でも「それはそれ、これはこれ」と割り切っていました。一生に一度くらい、そんな場面に出くわす時もままあるさと。311地震のあとだったこともあり、

 

 

 

 


「人間、いつどこでどんな風に死ぬかなど分からない」
「地政学的リスクと自然のリスクなど同じようなもん」
「地震で死ぬか、爆撃で死ぬか、テロで死ぬか」
「どんな死に方をしようと、死は死だ」
「死に方はこの際どうでもいい」
「どうせ死ぬなら、やりたいことやって後悔しない選択をしたい」





そんな風に思っていましたので、GMからのメールをただただ待っていたのです。

 

 

 



しかし。





あれだけプッシュし急かしていたGMから、9月中旬になっても返事はありませんでした。






やっぱり何か、彼らの求める業務とギャップあったか?と思い、9末になりシレーっとCV届いているか確認のメールをしたのです。





すると、






やっと返信が来たと思ったら、






GMはパリへ、若いAさんはヘルシンキへ、それぞれ8月初旬に既に避難していたことが判明!






リスクの増すベイルートに、大金持ちの彼らが留まる理由などなく、シリアから難民が流入して来る前のタイミングで既に家族共々避難していたよう。






そして、





「今は僕もAもMもベイルートには戻れない」「情勢が落ち着いたら改めて依頼する。また連絡する」と。






・・・






悩みに悩み抜いた私の大決心の行方は何処へ。笑






 

その後、シリア情勢は皆様ご存知の通り、落ち着くことなどなく第二次世界大戦後以来の稀に見る最悪の内戦へ突入。これまでに死者50万人、難民700万人。(シリア内戦は今現在も完全に終息したことにはなっていません!)

 

 

 

 


まあ、縁がなかったのですかね。地政学リスクには勝てません。私もシリア内戦は停められません。爆





というわけで、私の希望と期待は、あのシリア内戦に見事に打ち砕かれたのでした。






それにしましても、日本にいると少なくとも地政学的リスクは、間近に迫る脅威ではないじゃないですか。






今現在、台湾情勢が蠢いていますけど、今日明日にどうなるものではない。明後日、戦禍に陥ることなどありえない。






でも、中東情勢って今日明日に変わるのですよ。あっという間に生死に関わる情勢になる。なので、お金持ちはすぐに安全な国外へ退避するし、お金のない人はもう、どこへも行けず祈るしかない。不条理ですけどね。 






レバノンの銀行の件は、こんな顛末でした。





もう一つのイスタンブルのホテルマネはまた次回に書かせていただきますね!





地政学リスクのない日本は自然のリスクがある。どんな国にも何かしらリスクはあるよね。

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