2022年GWに訪ねたイラクの旅を綴っています。現地から書いていたものに写真と文を大幅に追加しています。


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バクダットから、シェアタクシーで一時間ちょっと。とうとう、あの夢にまで見たバビロニア遺跡に到着しました。



これは遺跡の入り口に建つイシュタル門です。残念ながらイミテーション。本物はベルリンのペルガモン美術館にあります。






※※※ここからベルリンのペルガモン美術館※※※

 

イラクへ行く二年半前、80歳にしてとうとう仕事を引退した父を連れてドイツを転々と旅行しました。ベルリンではベルガモン美術館へ。ここに展示される作品の中でも超一級の目玉はバビロニア遺跡のイシュタル門です。

 

 

 

 

 

 

こちらがオリジナル、本物、実物大です。当地にある上の写真、イミテーションとだいぶ違いますよね。このラピスラズリの深青のなんと美しいこと。そしてこの威風堂々とした巨大な門。バビロニアに建っていたおよそ2,500年前は、このファサードが太陽に照らされ、より一層輝きを放っていたことと思われます。



 

女神イシュタルの名を冠した門は新バビロニアの時代、紀元前575年頃にネブカドネザル2世の命によって建設されました。ファサードには浅浮き彫りのムシュフシュ(ドラゴン)、オーロックス(ブル)、ライオンが交互に並んでいるのも印象的です。




イシュタル門は、ドイツが1904年から1914年にかけて現地にて発掘調査を行いました。多額の投資に見合う成果を得たいと考えた当時のドイツ考古学者は、粉々に砕けたイシュタル門のピース、実に199,750点を船に積み込み、ユーフラテス川を使って密輸します。
 


そこからは気の遠くなるようなパズル。

 

相変わらず盗難に精を出す西欧の傍若無人には呆れますが、まあ、よくぞここまで復元してくれたとは思います。粉々のままバビロニアに放置されていたら、砂漠の土地柄、風化、若しくは盗難で二度と復元できなかったかも知れません。




2,500年の時を経ても、こうやって目の前でリアルな門を観賞できるのは本当にありがたいことです。


 

そして、これだけの美しい門を当時のバビロニア人たちがデザイン設計して建立したことに驚きを隠せません。

ところで、動物の下の花の絵はですね。

 




※※※ここまでベルリンのペルガモン美術館※※※




ドイツでバビロンのオリジナルイシュタル門を観たあの頃は、まだイラクのツーリストビザなどなく、永遠に本場へ行けないものと思っていました。







それが今、目の前に!


 

これはイシュタル門をくぐった先に掲げている、当時バビロニア王国が一番繁栄していたころの想像図です。「バベルの塔」のようなものがありますね。多分ジッグラトなのだと思います。きっとかなりの高さあり、天まで届きそうに見えて伝説的なシンボルになったのでしょう。ドバイのブルジュ・ハリファのように。そして、





そして、
ここがバビロンか。。

もう私、放心状態でして。笑 呆気に取られてSamirが何か言ってるのもよく聞かずにただただ無心に歩き回ります。

 

 

イシュタル門から進むと回廊が続くのですが、この時は修復中で迂回路へ。

 

この左の建物の向う側がイシュタル門から続くStreet of Procession、行列通りです。

 

 

 

先の方まで進むと、行列通りの中へ入ることができました。バビロンの街の中で最も重要な通りの一つです。

 

 

バビロニアの新年の祝賀会や、国家の開催する祭事の際に使用されました。

 

 

途中で、観光の家族ご一行に遭遇すると、彼らには遺跡所属の専属ガイドが説明しており、そのおかげでガイドと一緒でないと入れないエリアに降りていくことができました。



ここはオリジナルの回廊です。


 

ベルリンで見たイシュタル門の動物がまんまある。色はこのままだったのだろうか、それとも青い釉薬は完全に落ちてしまったのだろうか。

 

2500年の時を経て、当時の回廊で当時のバビロニア人たちと同じレリーフを観賞している不思議、そして感慨深さに溜息しかでません。

 

 

 

 

 

 

こちらのレリーフは、頭がドラゴン、尻尾は蛇、胴体は魚の鱗から成っていますよ。こういう発想が2,500年も前の人にもあるものなのだと感心します。

 

 

ここで超簡単にバビロニア王朝を説明します。古代のバビロン第一王朝は紀元前1830年ごろ、ティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯に栄え始めます。南北は現在のバグダッドからペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠やアラビア砂漠までの範囲に相当するといわれています。



 

バビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(紀元前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、ここバビロンが中心都市となっていきます。


ハンムラビの作った法典はとても有名ですよね。「目には目を、歯には歯を」。アグレッシブなコレばかりがクローズアップされますが、


 

法典は、それ以外にも商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の幅広い領域に及びます。

 

 

これら法律以外にも、バビロニアは文学、宗教、芸術、数学、天文学などが発達しました。

 

 

紀元前3000年期の世界最古文字はメソポタミアのシュメール人によって使用され始めていますので、古代バビロニアの時代に至っては、既に数多くの楔文字がタブレットに遺されています。

 

 

これは拾い物ですが、南部ウルクで発見された古代バビロニア時代(BC.2004年〜1595)のものとされるタブレット。楔文字で太陽系の原理を正確に記しています。ホント、鳥肌立ちますわ。
 

 

また、メソポタミア一帯は世界で最も古くから農耕が行われていました。

 

 

ティグリス川、ユーフラテス川が近くを流れ、季節による増水や渇水が多く、不作を防ぐための灌漑も行われていたよう。

 

 

そういった苦労も知恵として蓄積されていったのでしょうね。下の絵は、古代メソポタミアの農業の様子を描いたイラクサイトの図なのですけどね。

 

 
このメソポタミア文明時代の稲作想像図は、背景の竪穴式住居、茅葺き屋根から人々の服装、髪型に至るまで、まるで原始日本。不思議です。

 

 

長きの王朝を経て、他の地に首都を奪われながらも、紀元前539年には再び新バビロニアを復権。


 

再びバビロニアを征服した彼のアレクサンドロス3世に至っては、遠征の途上にバビロンで死去しています。彼にとってもお気に入りの場所。
 

 

あちらの丘の上に見えるのは宮殿です。バビロン遺跡一帯を眼下に眺めることができますよ。

 

後ほど参ります。

 



修復の進んでいる部分とそうでない部分が明確です。綺麗なところはほぼ復元済み。



イラク戦争のときに、米軍がここを基地にしやがりまして、多くの古代建造物が破壊されたほか、転がっていた貴重な遺物も軍人が勝手に盗んで自国へ持ち帰ったため、一昨年かな?米国と英国から数万点の盗難遺物がイラクに返却されましたよね。それでも未だ数十万点は盗まれたままなのだとか。

 

ほんと、あいつらロクなことしねーわ。ムカッ

 



このように、修復された建物以外は原形をとどめていないか、崩れそうな箇所も多く、遺物も欧米の美術館を中心に展示されている有様ですが、




このライオンだけはオリジナルそのまま。

 

 

この後ろには宮殿が建っており、神社の狛犬のように威厳を放っていたバビロニア遺跡で唯一のオリジナル像です。よく遺っていてくれたよー。泣

 

 

 

 

 

 

 

 

と、

 

 

 

 

 

 

ここでSamirが、バグダッドから乗ってきたシェアタクシーのトランクに、パスポートや現金入りの自分のリュックを忘れている事を思い出し(←遅すぎるだろ!)、観光どころじゃなくなるという。笑




 

あーでもないこーでもないとやっているうちに陽は暮れてしまいましたので、遺跡は途中までしか探索できなかったのです。泣