2019年6月に訪ねたトルクメニスタンの旅を綴っています。今回でトルクメニスタンの旅は終わりです。かなり長文ですのでお時間あるときにでも!

 

 

 

 

 

 

ダルヴァサを後にします。

 

 

 

 

 

 

昨日出会った彼女は、トルクメニスタン編の最初にお伝えした通過ビザを取得していました。

 

 

 

 

 

北方のウズベキスタンから入って、アシガバート(南下)へ向かい、イランへ抜けるそう。私たちは北上するので、ここでお別れ。

 

 

 

 

 

 

彼女は、香港から出発しユーラシア大陸を西へ向かうバックパッカー。ここトルクメニスタンへ至るまでに既に1年半、ずっとアジアを旅し続けていたそう。

 

 

 

 

 

タイで長期の沈没があったそうですが、一年半の間、一度も日本に帰っていないと言っていました。そして、まだまだ先は長い。

 

 

 

 

 

凄いなーと純粋に思います。

 

 

 

 

 

私は新卒で入った会社に未だ居続けているので、当然バックパッカー、といいますか長期旅はできるはずもなく、

 

 

 

 

 

GWや夏季休暇など少し長めの休みのとき、前後に有給休暇を足しては出国し、また三連休にちょっと足しては出国し、プロジェクト休暇をもらっては出国し。と、繰り返してきました。

 

 

 

 

 

 

私の環境とは正反対となるバックパッカーの方々の旅は、本質的なところで違うのだろうなと感じています。

 

 

 

 

 

 

時間はたっぷりあって、気の向くままに好きなところへ行けて、行く先々の国を隈なく巡り、そこが気に入ったら何ヶ月も滞在。スケジュール立て不要でまさに自分の人生を最大限に謳歌しているように見えます。

 

 

 

 

 

しかもお金が続く限り、それを永遠と続けることができる。

 

 

 

 

 

羨ましいです。

 

 

 

 

 

私も若い20代のころ、会社を辞めて世界を放浪しようかと真剣に考えたことありました。

 

 

 

 

 

そこで、そのときたまたまもらったプロジェクト休暇を使って、2週間ほどロンドンに超短期留学をしてみたのです。

 

 

 

 

 

 

きっと、放浪の旅に繋がる何かが見つかるはず。って思ってた。

 

 

 

 

 

当時は、2週間の休みをまるまる海外生活に充てられるなど夢のようでした。

 

 

 

 

 

語学学校のクラスメイトはイタリア人ばかりで、面白いし楽しい。放課後に市内の名所やパブに連れて行ってくれるレクリエーションが連日催行されていたので、毎日参加し、別のクラスの子なども仲良くなりました。

 

 

 

 

 

ホームステイも初めての経験で、それはそれは楽しい日々を過ごしたのです。

 

 

 

 

 

しかしですね。

 

 

 

 

 

刹那的に楽しく幸せななかで、脳の片隅の誰かが呟いていた。

 

 

 

 

 

『ロンドンで長期間クイーンズ・イングリッシュを習得する。或いは長期の旅に出て一般の日本人が経験できないようなことを体験したとして。』

 

 

 

 

 

 

『それをもって日本に帰った時、その経験を活かして人や社会のために何かできるのか?』

 

 

 

 

 

『何か起こせるのか?なにか創造できるのか?』

 

 

 

 

 

何だか何も思い浮かばなかった。全然ピンと来ない。英語は単なるツール。話せたうえで更に何かしらの技術や売れるものないと仕事ない。

 

 

 

 

 

ましてや「世界中を旅してきました」が、採用心象を良くする時代でもなく、その経験をもって自分で起業したところで情報を売れるようなインフラもなかった。

 

 

 

 

 

『インプットばかりでアウトプットないって何?そのインプットの価値って何?』

 

 

 

 

 

 

 

『それ、ただの自己満やん。』

 

 

 

 

 

 

自分の知見が増えたというだけでは、何も社会の役には立たない。当時はセルフプロデュースという感覚も持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

『それ、今の恵まれた環境を捨てる価値あるんか?』

 

 

  

 

 

その頃は、パソコンがまだ企業に普及し始めたばかりで一般にまでは浸透しておらず、携帯もピッチの時代。

 

 

 

 

 

こんなブログなども当然なかったですし、情報はテレビや書籍から得るような環境でした。

 

 

 

 

 

もし旅に出たとして、きっとその行動に何かの価値はあっただろうし、行ったら行ったで何かしらは見つけられていたでしょう。

 

 

 

 

 

でも、当時の私は今の会社で今の仕事をしている方がよっぽど誰かの役に立つ。と思ったのですよね。税金を納めるだけでも大きな社会貢献だと。

 

 

 

 

 

別に仕事を辞めなくても、この会社ならいつでも海外は行ける。

 

 

 

 

 

ロンドンで、連日連夜楽しみにながらも、もう一人の合理的な自分が、頭のどこかでそんなことを呟いていたかな。何か違うんじゃん?って。

 

 

 

 

 

 

楽しいのだけど、まぁ、何か想像していたものとは違っていたのですよね。飽くまでも、これは長い人生の中でとある瞬間のカラ騒ぎ。この感情は長くは続かないと、どこか冷めた自分がいました。

 

 

 

 

 

放浪の旅に繋がる何かを見出だすどころか、将来の現実を直視してしまった感じでしたね。

 

 

 

 

 

そもそも、私はバックパッカーにはなれない。先述したように、まずベッド以外で眠れない、ドミトリーに泊まれない。バスの長時間移動もできない。

 

 

 

 

 

毎日ホテルに泊まり、移動は飛行機の長期旅などできる資金もない。

 

 

 

 

 

で、辞めるのを止めたのでした。

 

 

 

 

 

今となっては、いつか一年くらいかけて、これまで訪ねた国のオサライ旅をしたいとは思っています。定年後で十分です。

 

 

 

 

 

前段が長くなってしまいました。別記事にすればよかったな。まあ、バックパッカーと知り合ったので、こんな感情と行動が過去あったことを思い出し。

 

 

 

 

 

さてまた、ユリアとのドライブ旅が始まります。

 

 

目指すは北方、この旅最後の遺跡です。

 

 

 

 

 

 

しかしここで、個人的な事件が発生。

 

 

 

 

 

 

ダルヴァサを出ると、北上中の道路は穴だらけでした。ゴヌルテペより酷い上下左右の揺れ。ポンポン跳ねる感じです。

 

 

 

 

 

このため10Km/h以上が出せないのですよ。それでもヒドイ振動。

 

 

 

 

 

ユリアはなるべく穴がないところを駆使して走ろうとしてくれるのですが、ホント穴だらけでどこを通っても穴に落ちる。

 

 

 

 

 

そこで私、その振動に耐え切れなかったのか。その前のゴヌルテペのも効いたのか。寝不足が祟ったのか。

 

 

 

 

 

 

予定より1週間も早く生理が来てしまってですね。(男性の方スミマセン、ここからチョット女子バナ。女子にもちょっとエグイかも知れません)

 

 

 

 

 

普段から生理が大きくズレることがなく、トルク旅行中はカスリもしない予定でした。

 

 

 

 

 

このため、生理用品を何も持ってきていなかった。

 

 

 

 

 

こういうとき、一人だったり女性がいれば何とかなるのですが、お爺ちゃん。。

 

 

 

 

 

そして、それでも都会にいれば何とかなりますが、どこまでも見渡す限りの砂漠地帯。

 

 
マズイ。
 
 
 

 

ユリアに聞いたら、この調子だと次の目的地までまだ3時間はかかるって。

 

 

 

 

 

「次にスーパーやコンビニがあるところで、買いたいものがあるので寄ってもらえる?」と告げ、祈る気持ち(お願いだからそこまで留まって。。笑)で腹部、、というか子宮を押さえて温めていました。

 

 

 

 

 

相変わらず1時間ごとに休憩はしてくれるので、草むらで用を足しつつ排血。(食事中の方スミマセン)

 

 

 

 

 

あれはホント最悪でした。車のシートを汚したらどうしようと気が気でなかった。しかも、車のシートが汚れるという事は、ジーパン、アウトですからね。

 

 

 

 

 

3時間たったころ、街の小さな個人スーパーへ。
 
 
 
 
 
必要なものを購入し、レジの女性に事情を伝えてトイレを貸してもらいました。
 
 
 
 
 
ホッ。
 
 
 
 
 
何故かセーフ。
 
 
 
 
 
準備完了。良かった、レジの姉さんが英語の通じる人で。。そしてあらゆる意味で。。笑
 
 
 
 
 

というわけでですね。女子は色々と大変です。

 

 
 
 
 
旅に戻って最後の遺跡、クフナ・ウルゲンチです。こちらも世界遺産に登録されています。「ウルゲンチ」というと、ウズベキスタンの方が有名ですかね。あちらのウルゲンチは新しく、こちらは旧となります。どちらもシルクロードにおける最大都市でした。
 

 
クフナウルゲンチは、メルブと同様に13世紀初頭にチンギス・ハーンが襲来し、人も建物も壊滅状態となります。メルブと違うのは、大虐殺の後に少なからず復興したこと。
 
 
 
 
 
シルクロードの主要道上の最大都市であったためか、虐殺を免れた人々によって再建されました。
 
 
 
 
 
しかし今度は、近くを流れるアムダリヤ川の流れが変わったことで放棄され、現ウズベキスタンの新ウルゲンチに移行されていきました。
 
 
 
 
 
トレベクハニム廟。14世紀に建設。モンゴル来襲後ですね。
 
 
ここは内部の天井です。一年の日数や時間が分かるようになっているのですって。
 
 
こちらは11世紀に建設された、未だに世界一の高さを誇るミナレットです。60m。
 
 
麓にアメフト王の廟があります。この中の棺を7回周ると、聖地へ訪ねたのと同じ効果なのだそう。そういうのイスラム教にもあるのですね。チベット仏教やヒンドゥで聞きますよね。何かそういうの腑に落ちない。笑
 
 
それにしても今、21世紀ですよね?1000年、よくもったなー。下の方は補強されているかも?
 
 
こちらは、傾いてるように見える第4代王の廟。
 
 
まあ、完全に傾いてます。笑
 
 
ここは比較的近代、というかつい数年で再建されたのではないかな?一番新しい廟で、ここに一番イスラム教徒が入っていってました。
 
 
さて、クフナウルゲンチからまたしばらくドライブし、タシャウズという街へ向かいます。国内線の近い街です。
 
 
結構な大都市です。
 
 
変わったデザインのビルもアチコチで見ます。
 
 
ダスグズ・モスク。女性は敷地内でさえ入場不可。知らずに入って注意される。笑
 
 
フライトまで時間があったためか、ユリアが「美味しいロシアンレストランがあるから一緒に行かない?」と誘ってくれました。
 
 
美味しいロシアのスープ。ユリア、ホント優しいな。彼は元々ロシア生まれですが、この辺り一帯がまだ旧ソの構成国だったとき、親とともに移住してきたのだそう。
 
 
ボーイングのメカニックとして仕事を全うし、定年されているので「ロシアに帰ったりはしないの?」と聞いたところ、「もうない、もうここでいい」のだそう。
 
 
 
 
 
こんな独裁でも住めば都なのかなぁ。それともプーチンよりマシなのか?笑
 
 
 
 
 
ツアーのスケジュールにはなかったですのに、夕飯誘ってくれうえ、ここの食事代も彼が出してくれました。
 
 
昨日の串焼きの味が忘れられず、「もしまたアシガバートに来たら、あなたの家へ訪問してもいいですか?」と聞いたところ、OKとのことでしたので連絡先を聞きました。私は社交辞令の通じない人間です。笑
 
 
 
 
 
アライバルビザも取れるようになることだし、必ず再訪するぞ!と、この時は思っていました。その後、本当にアライバルビザ取れるようになったかは不明ですが。。
 
 
 
 
 
空港まで送ってもらい、ユリアとサヨナラして、帰国のためアシガバートへ向け機内に乗り込みます。
 
 
 
 
 
そこでまた驚いたハプニング。
 
 
 
 
 
私の乗った飛行機は、客が全員着席しても出航する気配がない。CAが慌ただしく誰かと連絡を取り、ただ事ではない雰囲気が機内を漂い始めます。
 
 
 
 
 
機長も度々、客室に出てきてはCAに何か指示している。
 
 
 
 
 
こういう国は時間にキチッとしてるので、フライトも滅多に遅れないのですが、乗機後、既に一時間は経ってる。
 
 
 
 
 
と、そのうち慌ただしく現れたのが二人の看護婦。前方シートの乗客を移動させて何やら始めた。
 
 
 
 
 
何があったんだ?乗客に重病者?
 
 
 
 
 
でも、それならその人を降ろすよね?
 
 
 
 
 
そしてしばらくすると、今度は白衣を着た医師が入ってきた。しきりに誰かと電話で話してる。
 
 
 
 
 
何?
 
 
 
 
 
何が起こったの?
 
 
 
 
 
そしてまた、少し経って乗機してきたのが、、、
 
 
 
 
 
全身を強く打ったのか、顔中体中青痣赤痣だらけになって気絶してる少女を両腕に抱えた父親。
 
 
 
 
 
私もさすがに顎が外れました。
 
 
 
 
 
乗客みんな唖然とし、視線くぎ付け。
 
 
 
 
 
ちょっ、ちょっと!
 
 
 
 
 
 
この子をこれからこの飛行機でアシガバートまで運ぶつもり?
 
 
 
 
 
 
一時間のフライトの間、何も処置せず見守るだけ?
 
 
 
 
 
 
途中で息止まったらどうすんの?医療用の酸素マスクとかAEDとかそれなりのものあるの?
 
 
 
 
 
 
そもそも、何でアシガバートまで運ぶ必要が?タシャウスにこの子を助ける医療施設や設備がないってこと?
 
 
 
 
 
 
その様子を見ていた乗客の中に、座席ポケット備え付けの紙袋へ戻す人が出てきた。
 
 
 
 
 
 
それくらい酷かった。
 
 
 
 
 
 
ってかこの子、、まだ生きてる?
 
 
 
 
 
 
それを疑うほどの酷い痣。あれほどの打撲体を、私も初めて見ました。
 
 
 
 
 
 
看護師は彼女を横たわらせるための座席作りを始め、医師はしきりに誰かに電話している。
 
 
 
 
 
父親は彼女を抱えながら蒼白になって呆然と立ち尽くしている。
 
 
 
 
 
と、医師が何か叫んだと思ったら、医師とともに看護師、親子が降機していきました。。
 
 
 
 
 
一同無言。。。というかとにかく啞然。
 
 
 
 
 
これはトルクメニスタンでは一般的なのか?こんな、昭和初期のような環境が普通なのか?
 
 
 
 
 
乗客のほとんどが観光客らしい欧米人ばかりだったのもあり、目を見合わせたり、ただただ心配そうに見つめる乗客、首を横に何度も振りながら呆れ顔の乗客も(飛行機が遅れたことにではなく、その一部始終の所作にだと思われる)。言葉はなし。
 
 
 
 
 
少しして飛行機が、ゆっくり動き出しました。
 
 
 
 
 
あの子の命、助かっただろうか。。
 
 
 
 
 
 
大統領さ。
 
 
 
 
 
アシガバートのマーブルより、各都市の医療施設を充実させることの方が大事なんじゃないの?独裁もいいけど、誰か進言する人いないんかい!
 
 
 
 
 
と、最後の最後まで突っ込みどころの多い大統領のいるトルクメニスタンでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここは、本来は写してはいけないとされているアシガバートの国際線ターミナル内(既出国)です。
 
 
夜中のフライトなので乗客は少ないですが、ほぼ等間隔に警察は立っています。
 
 
チェックインカウンターのある広大なターミナル内部のの装飾が素晴らしく、そこを撮りたかったのですが、カメラを手に持っているだけで注意されました。
 
 
警備厳しすぎて、スマホも無理でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最初は慣れませんでしたが、いつの間にか頼りっぱなしとなったトルクメニスタンツアー。これにて終わりです。
 
 
 
 
 
今回も毎記事、やたらと長文になってしまいました。それにも関わらず、最後まで読んでいただきありがとうございました!
 
 
 
 
 
感情を入れずにただただ場所の紹介だけをしたトルクメニスタンのまとめ記事を書いています。