重量オーバー規制とか、乗員制限とかもなさそう。笑
平原が続き、2時間くらい経った頃かな。
モヘンジョ・ダロ遺跡に到着。警察も護衛で着いてきてくれるそう。
ここも世界遺産。紀元前2500年頃から栄えたとされるインダス文明の古代遺跡です。
おおお!ストゥーパ!まぁまぁ遺ってるじゃないですか。このストゥーパがあったせいで、当初、ここはガンダーラ王国の遺跡と思われていたのですよ。時代が全然違うのに!
ストゥーパの周りも、思ったよりは何か施設らしいものが遺ってる。
モヘンジョ・ダロは水をうまく使った都市文明と言われています。インダス川の汲み取りや生活排水の排出方法は、この時代では考えられないほど高度だったそうですよ。
一帯を見終わって高所から辺りを見渡すと、東の平原の先に何かあるような感じ。
ライフルくんに、「向こうの方に見えるあそこも遺跡なの?」と聞くと、「あっちも遺跡だけど、アリババがいるから行かない方がいい。」と言われました。
何?アリババって?
「過激派武装集団の名前だ」「撃たれるかもしれないから、あっちには行かない方がいい」
行かない方がいい。。。
っていうか、
行けないよね?笑
そういうの、看板かなんか立てておいてくれないと、私一人だったら間違いなく行ってましたよ。
この辺りの街は、わりと過激派が潜伏しているようなので、あまり遺跡外をウロウロしないほうが良さそうです。
大体、こんなところで散弾銃などぶちかまされたら、その爆圧や音圧、流れ玉で、遺跡のこの脆い土が崩れてしまいかねない。それでなくとも乾燥による劣化が激しいのに、それだけは避けていただきたいです。
ずっと護衛してくれたライフルくんと記念にパチリ。色々とありがとう。
そうそう、ここへ入館する際、外国人は今日の日付と名前と国名、パスポートナンバー等を冊子に鉛筆で記入するのですが、私より前に訪れた人は、4ヶ月前の中国人1人、その前もさらに4ヶ月前のフランス人2人。
誰も来ないん?ここ。笑
併設されてる美術館へ行ってみました。
チェスの駒のようなものも発見されていて、凄い文化があったのだろうなと改めて感心します。
モヘンジョ・ダロに関しては、かなりマジメに調べて記事を書いていますので、もしご興味ございましたら下記リンクも読んでみてくださいね。
パキスタンの旅路は北から南下でしたので、段々と暑くなってくる。モヘンジョ・ダロは夏50℃を軽く超えるそうで、この日もここまでで一番暑く、私も段々と暑さにやられていく。
ちょっとまたフラフラしてきてですね。フライトには早過ぎるのですが、空港まで送ってもらうことにしました。
小さい空港で、私が着いたときはまだ入口の門さえ開いてなかった。ドライバーと警察が交渉してくれて、中で待機させてもらえることになりました。
ここで二人とはサヨナラ。ありがとう。ホント助かりました。
そして、私は空港の待合いやターミナルホールではなく、何もないガランとした小さな事務所のような場所へ通されました。アーミーと警察が紅茶とクッキーを出してくれた。なくなると追加してくれる。笑
この事務所は警察が代わる代わる出入りし、その度に彼らは声をかけてくれます。一人の大柄な若いアーミーは、少し離れた向かいのソファにずっと座ってました。もちろんその側にはライフル銃。
少し話をしましたが、暑さに疲れたのか若干ウトウト、のち爆睡。
私には珍しいのですが結構な時間、30分くらい座ったまま寝てたように思います。パッと目覚めると、まだアーミーの彼はそこに座ってスマホをいじっていました。「この人、暇なの?」と思い、また色々と話をしました。
彼は、パキスタン北部の山間にあるSWATという村に家があり、3ヶ月に一度の休みに帰れること。子どもたちに会うのを楽しみにここ(モヘンジョ・ダロ空港)で日夜頑張ってること。
地元はとても美しく、今度パキスタンへ来たら必ず行って欲しいと、彼の子どもたちや自分で撮った自然の美しいSWATの写真をスマホで見せてくれました。
ここへ通されてから3時間近くは経ったかなぁ。チェックインカウンターのオープンアナウンスが現地語で入り、それを英語で私に伝えてくれた彼は、一緒に部屋から出て空港施設側へ行きチェックイン。
「次にパキスタンへ来て、SWATへ行くときは必ず連絡する!」と、そこでサヨナラし、私は手荷物検査と金属探知を抜けて搭乗口へ。
ソファに座り、
ん?
ちょっと待てよ?
もしかして。。。
よくよく考えたら、
彼は暇だったのではなく、最初から私の護衛のためだけにあの部屋から離れず、ずっと一緒に居てくれたのだと気付き。。涙
さぁ、この旅、最後の国内線。
この旅、最後の都市へ飛びます。
モヘンジョ・ダロの詳しい記事はコチラ