地元の大学を出た私は社会人になると同時に一人暮らしを始めた。
母の勧めだった。
就職先も近場で無事に決まったこともあり、少しは一人で生活しなさいとのことだった。
実家から車で20分程の場所のマンションを借りた。
いつでも行き来し易い距離にしろとの父の意見で。
こう振り返ってみると、単なる良い子ちゃんでしかなかったのかもしれない。
自分の意見はどこにあったのだろう?
命というモノを授かって初めて自分の意見、意思というモノが芽生えたのかもしれない。
さっきまでご機嫌に歌っていた愛はいつのまにか眠ってしまっている。
車の揺れが心地いいのだろう。
いつもせっかく気持ちよく眠りについたところで実家に着き、目を覚ますことになってしまう。
実家に続く道を右折すると、今日もまた家の前の道路で待っている母の姿が見えた。

「おはよう。」

「おはよう。愛ちゃん、また寝ちゃってるねぇ。」

「すぐに起きるよ。」

案の定、目を覚ました。

「おばあちゃ~ん!!」

母の顔を見るなり、シートベルトから必死に抜け出そうとする愛。
これを運転中にされたら怖いなといつものことながら思ってしまう。

「愛ちゃん、おはよう!!」

助手席のドアを開け、愛を抱き上げる母。
嬉しさに鼻息を荒げ、両足をバタバタさせる愛。
このリアクションは赤ちゃんの頃からずっと変わらない。

「お父さんは?」

「うん、出かけて来るって言って30分ぐらい前に出て行ったよ。突然、結に誘われて困ったんじゃない?また、誘えば良いよ。ね~、愛ちゃ~ん!!」

それはそうかもしれない。
当たり前のことだがやはり母は父のことをよくわかっている。
長年連れ添うとはそういうことなのだろうか?
実の子供から見ても、おしどり夫婦だと思う。
こんな言い方はしたくないが、
愛が出来たことによって夫婦の関係が壊れてしまわないか心配だった。
何の問題もなかった。
全てを良い方向へと導いてくれた、母は。
ただひとつ、父と私の関係だけは自分でどうにかしなさいと間に入るのをしないこと以外は。

「そうだよね。根気よくいかないとね。」

「そうだよ。お父さんだって本当は一緒に出かけたかったと思うよ。ただ、誘われていきなりハイハイって言うのはシャクだったんだよ、きっと。」

「そんなもんかな?」

「そんなもんだよ。毎日毎日毎日毎日、今日は結と愛ちゃんはどうしてるんだ?って。毎日の予定を私が全部把握してるワケないのにねぇ。気になってしょうがないんだよ。」

母から聞く父の話はいつも私と愛のことを気にしてる話ばかりだ。
父にはきっと理想があったのだと思う。
一人娘である私の結婚、出産・・・
まだ2歳の愛を見て、私にはその将来まで想像するだけの余裕はない。
少し、手が離れた時にどう思うのだろうか。
父親がいない子供を生むと言われたらどう思うだろうか。
きっと自分のことなんて考えもせず、父と同様に反対してしまうのではないだろうか。
母みたいに大丈夫なんて言ってあげられないのではないだろうか。
結局私はまだまだ子供だ。

「行こうか。」

母の言葉に返答出来るセリフの見つからなかった私は車を発進させることしか出来なかった。
「相手の男を連れて来い!!」

「出来ない。」

「何で出来ないんだ!!」

「・・・連絡がとれないから・・・」

絶対に泣かないと決めてたのに・・・
どこか甘い考えがあった。
父なら理解してくれるのではないか。
優しく受け止めてくれるのではないか。
そんなハズはなかった。
それがわかり、彼との連絡がとれない事実を口に出した瞬間、瞳の緊張は脆くも崩れ去った。
不倫の果ての妊娠。
こうなる日が来てもおかしくない重なりを続けた。
心の奥底ではこうなることを臨んでいた。
それがない限り、本気で私と向き合ってくれることはないと思っていたから。
しかし現実は真逆だった。
妊娠を告げたその日、彼は私を愛しそうに抱き・・・そう愛しそうなだけだった・・・
愛しいワケではなかった・・・
この子の一番の幸せをこれから考えていこうと、部屋を出る時に言い残し、
その後連絡はとれなくなった・・・
これまで生きて来て自分が甘い考えの人間だとは微塵も思いはしなかった。
一人っ子の私は箱入りで育てられた。
両親に褒められることが嬉しくてどんなことも努力を惜しまなかった。
自分は頑張っている人間だと思っていた。
堕落して覇気のない人間こそが甘い考えの持ち主だと信じて止まなかった。
しかしそれは違っていた。
免疫がなかったと言うと言い訳がましく聞こえてしまうだろうが、事実免疫がなかった。
社会に出て彼と出会い、私の方から溺れた。
彼は何ひとつ嘘をつかなかった。
今、冷静に考えてみると、嘘をつかないで済むような話題しかしなかっただけだ。
でもそんなことにも気付かなかった。
妻子ある身であることは初めからわかっていた。
先に溺れてしまった私が考える幸せの道は彼の子を設けることとなっていった。
毎日のように例え30分であろうと私に愛してると伝えに来てくれる彼を、
彼の言うことを鵜呑みにしてしまっていた。
二人の未来を話合うきっかけは二人の子供からだと正しくはない概念に傾倒していってしまった。
全ては、彼の言葉の全ては私を求めるだけの道具でしかなかったのだろう。
そんなことも見抜けないぐらいに溺れ、安易に子供まで設け、
挙げ句父なら全てを理解し、優しく受け止めてくれるのではないかと
どこまでも愚かで甘い考えの持ち主に私はなっていた。

「相手のことも大事、この子の父親なんだからね。でも連絡がとれない以上、結がどうしたいのか決めないといけないことよ。」

怒り・・・多分怒りに震え言葉も出ない父、自分自身の愚かさを痛い程感じて涙の止まらない私。
二人の沈黙を破り優しい口調で母が言った。

「・・・私は・・・生みたい・・・」

「っんなっ、何を言って・・・」

父が凄い剣幕で言いかけたところを母が強引に止めた。

「声を荒げないで!!結は・・・あなたの娘の結のお腹には赤ちゃんがいるの!!あなたが結と赤ちゃんに悲しい思いをさせてどうするの?」

どうにも自分を保つことがしんどくなったのだろうか。
出かけて来ると一言言い、父は部屋を出て行った。

「・・・お母さん・・・」

母の肩に頭を横たえ私はずっとずっと、お母さんと言い続けた・・・
母はその間ずっと私の体をさすってくれていた・・・
大丈夫、大丈夫と何度も言いながら・・・
「愛~!!ママのバッグ持って来て~!!大きい方のね~!!」

「これこれこれ、はい。」

愛は言葉を憶えるのが早い。
必然的にコミュニケーション力も高くなる。
こっちが言っていることのほとんどを理解し、行動することが出来る。
もちろん愛が理解出来るようにやりとりすることを心がけてる。
それらを自分の中で噛み砕く能力が高いのだろう。
故に、最近ではわかってわざと違うことをして、私の気を引こうとしたり、わざとボケたりする。
本当に可愛い、愛くるしい。
それらは何も問題ないことなのだが、その他に大変なことがある。
きっと、愛に限ったことではなく、子供はみんなそうなのだと思うが・・・

「はい、ありがとう!!うん?これじゃないよ、大きいバッグだよ。」

「これこれこれ!!」

ほとんど毎日、このやりとり、この調子。
私が愛にバッグを持って来るように頼むと、自分の好きなバッグしか取ってくれない。
女の子なんだなあと最初の頃こそ思ってはいたが、毎日のこととなると・・・

「このバッグは小さいから、愛のお着替えとかオムツとかが全部入らないのね。大きいバッグなら全部入るからママは大きいバッグ持って来てって頼んだんだよ。」

「や~だ~!!愛ちゃん、これがいいの~!!ちょうちょがいいの~!!」

愛の言う『ちょうちょ』とは、アナスイのロゴとなっている金具のこと。
アナスイが好きな私は、いくつかバッグを持っている。
その中のどれかひとつを必ず持って来る愛。
ただそれらのバッグのどれもが愛が生まれて来る前に購入したモノなので、
サイズは小ぶりのモノばかり。
愛とのおでかけバッグとしては使えない。

「じゃあ、これも持っていこうかね。」

「うん!!」

結局、大きいバッグと小さいバッグの両方を持って出かけることになってしまう。
子供とはこういうものなのだと自分に言い聞かせるしかない。

愛はちょうちょが大好きだ。
春生まれだからかな?
まだ言葉も上手く発することが出来ない頃から、ちょうちょには物凄く興味を持っていた。
たまたま読んであげる絵本にちょうちょが描かれていようものなら、

「あ~う~あ~あ~」

と、言いながら手を伸ばし、必ずちょうちょを指差していた。
テレビでちょうちょが出てくれば、触ろうとしてテレビに近づく。
私もちょうちょが好きだ。
だから、身の回りのアイテムでちょうちょがモティーフになっているモノは多い。
出産直後、初めて愛が部屋に連れて来られた時にしていたバレッタもちょうちょの形だった。
もしかしたらそれが愛の中で何か大きなモノとなって今に到っているのかもしれない。
ただ、愛はまだ本物のちょうちょを見たことがない。
だから今日、本物のちょうちょを見ることの出来る花広場に出かけることにした。
暖かな春の日の愛の誕生日。
両親を誘ってちょうちょを見に行くことにした。

「ほらー!!愛~靴履くよ~!!自分で履ける~?」

「待って~!!愛ちゃん、自分で。」

何でも自分でやろうとするこのエネルギー、見習わなければならないと思う。

「で~き~な~い~!!」

一生懸命やるも上手く出来ずに半泣きの愛。

「じゃあ、一緒に履こうか?」

「うん、一緒に!!」

愛は『一緒』が好きだ。
一緒という言葉を聞いた途端に涙は止まる。
こんなに小さい子にもわかることなのだろう。
『一緒』と、いうことの嬉しさ、喜びが・・・

「はい、履けた~!!上手に履けたね!!愛!!」

「上手に履けた、愛ちゃん!!」

同じ言葉を繰り返す愛。
そうやって、愛はひとつずつ言葉を憶えていく。
私はその瞬間に自分を確認する。
愛の目の前には自分がいるということを。

「はい、じゃあ、ちょうちょを見に行くよー!!」

「は~い!!ちょうちょ行くよ~!!」

愛を助手席のチャイルドシートに乗せ、両親を迎えに実家へと車を走らせた。