筆者・ソロモンエビは、当ブログの投稿履歴をご覧いただければ分かる通り、TRPGプレイヤーである。そんな筆者にとって「2分の1の魔法」は、自分の趣味の領域にかなり近い、肌感覚で楽しめる映画であった。

https://youtu.be/Ad1mWNSjiYo

 

 

 さて、この映画ではTRPG、とりわけ「D&D」を世界観の題材に扱っている。現代にまで続くあらゆるテーブルトークロールプレイングの元祖となった、由緒正しいアメリカ産のゲームだ。

http://hobbyjapan.co.jp/dd/

 

 

 D&Dは基本的に、いわゆる中世西洋風異世界ファンタジーを舞台とした冒険を楽しむゲームである。エルフやドワーフといった多くの異種属が、人類と共存または対立する、神秘に満ちた世界である。「2分の1の魔法」の世界観の下敷きとなっているのはまさにこの世界だ。本作では、D&Dが取り扱う神秘の世界から数十年〜数百年経過し、現実世界に限りなく近い状態となった世界が舞台となる。

 

 さて、なぜこの「2分の1の魔法」は、D&D的な世界を下敷きにしつつも敢えて現実に近い世界にしたのか。それは、思いや願いを形にしてくれる、素晴らしい魔法の存在しない世界に生きる、我々観客の視点に寄り添うためだろう。

 例えばイアンの兄バーリーが、現実世界におけるD&Dにそっくりなゲームに夢中というメタフィクション的なキャラクターなのも、魔法の世界が空想上の絵空事だと知っている、我々観客の視点に合わせるためと言える。

 我々はこうした工夫によって、この「2分の1の魔法」がファンタジー要素を持ちつつも限りなく現実に近い世界であることを理解する。そうすることで、登場人物であるイアン達の持つ物の見方・考え方に寄り添って映画を楽しめるのである。

 

 世界はちょっぴりメルヘンだけど、イアン達が抱える悩みや感情は現実を生きる我々と何ら変わらない。だからこそ彼らの思いが胸をうつし、その思いが魔法という形を伴って奇跡を呼んだとき、その奇跡を願った私たち観客の心は満たされるのだ。

 

 そして、この映画の中で、観客の思いや願いとシンクロして奇跡を起こしたのは、イアンだけではない。兄バーリーもまた弟からの信頼を勝ち取り、最後は父との再会を果たした。母は普段のフィットネスで鍛えた足腰を活かしてドラゴンと渡り合い、その彼氏であるケンタウロスの警官はエピローグにて種族本来の健脚を取り戻している。マンティコアは往年の猛々しさを目覚めさせ、自分らしさを取り戻した。

 我々観客が彼らのドラマに感情移入し、奇跡の成就を願ったとき、彼らはそれぞれの魔法を起こしている。彼らの起こした魔法の奇跡のうち、その2分の1は我々観客が担っていたのだ。

 

 もちろん現実的な話、我々が何を願ったところで映画の内容が変化することはない。作り手側の論理で言うならば、観客の感情を誘導し、その誘導に応える(あるいは裏切る)ように次の展開を配置し、観客に満足をもたらしているにすぎない。しかしそんな冷静な分析を上書きするように、我々観客の感情は映画世界に巻き込まれているはずだ(残念ながらそこまで自分を騙してくれない、残念な映画というのもあるということは承知の上で)。

 

 本来なら、映画とは一方通行な芸術である。その映画に、観客の心を巻き込み、その心が願った祈りの成就さえストーリーに取り込んでいくパワーを吹き込む、この摩訶不思議な力こそ"ファンタジー"の本質ではないだろうか。