江戸っ子は意外に信心深い。
明日は解らない身の上の庶民だから御天道(おてんどう)様、中国の天帝(てんてい・天の支配者)に当たる概念までも持っていた。
その中でも、山岳信仰は広く信仰されて居て神奈川の大山参り、秩父の三峰山、中でも江戸市中から良く見る事が出来る富士参りは、江戸っ子の必須で江戸の町中に何十と言う富士講(ふじこう)と言う組織が有り、此の組織に属さないと容易には富士参りが出来ないと言う仕組みで有ったそうで、逆に町内の富士講に属すると先達(せんだつ)と言うガイドが通行手形(つうこうてがた・通行証)から道々の宿の手配をする、言わばツアーコンダクターを果たしたそうで、庶民でも気軽な物見遊山(ものみゆさん・観光)が出来たそうだ。
とは言っても究極の富士参りの目的は山頂での御来光(ごらいこう)に有ったそうで、単に高みに登るのでは無くて、山頂から此の世に姿を現せる阿弥陀如来(あみだにょらい・人を極楽に導く仏)のお姿を拝むに有ったらしい。
御来光と言うと日ノ出を見て有り難がるのが今日の仕来たりと成って居るが、江戸っ子の御来光とは、日ノ出に背を向けて、富士山の火口に目を転じて、火口の霧や雲に写る自身の影を如来として礼拝する神秘な儀式で有ったそうで、此れはヨーロッパのアルプスに置けるブロッケン現象、怪奇現象と同じながらに方や神聖方や妖怪と別れるので有る、物の受け取り方は洋の東西で異なるが、何か我以外に何かを感ずる事が大切な気がする。
僅かな揺らぎ、揺らめきを見きわめねば道を誤る事が起きる。
政治も人生も。
2024年9月5日

