春の轍 ⑪の3 | 尾川永次のブログ

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         春の轍 ⑪の3

                       尾川泳児

 

 謙三は腕時計を見た。すでに一時を回っている。

 

「もうこんな時間か。与太話が過ぎましたね。終電過ぎちゃったけど

 家は歩いて帰れるのかい?」
「吉祥寺駅前のワンルームマンションですから」

 

「良かった。我が家は吉祥寺駅の反対側だから途中まで一緒に

 帰れますね。今、片付けるからちよっと待っててくれるかな。

 ラーメン無理やり食べさせといて若いお嬢さんを一人で帰すわけ

 にもいかないからね」
「無理やりだなんて、そんなことないです。食べられて良かったです。 あ、そうだ。おいくらですか?」夏子はバッグから財布を取り出した。

 

「いいんですよ今日は。春子のラーメンを食べてくれただけであり

 がたいですから」
「いえ、払わせて下さい。お客さん第一号になりたいんです。それ

 とこれからも食べに来ます」

 

 謙三は満面の笑みを浮かべた。
「嬉しい言葉だね。そんな風に言ってもらえるのが商売の醍醐味

 なんでしょうね。何となく分かった気がしますよ」

 

「それと、一つお訊きしたいのですが」
「はい、何でしょう?」

 

「何てお呼びしたらいいのかなって。店主さんじゃ変ですよね」
「呼び名ねー。考えたことも無かったなー。男だったら大将とか

 おやじさんなんて呼ぶんだろうけど、若い女性からだと、どう

 なんだろう。ラーメン屋でマスターでも無いしなー」

 

「じゃあ、謙三さんてお呼びしますから私の事は夏子って呼んで

 下さい。でも、たった一回しか食べてないのに馴れ馴れしいかな」

 

「人の間に一回も百回も無いですよ。ただ若いお嬢さんから謙三

 さんなんて言われたら少し照れますけどね」

 

「そうですよね。会社で一年共にしてたってちっとも仲良く成れない

 人いますものね」
「そういうこと。但し、信頼は積み重ねるものですがね」
「流石、先輩。言葉の重みが違います」

 

「まあ、呼び捨ては出来そうも無いので、さん付けでいいです

 かね?」
「はい、おいくらですか?謙三さん」

 

 初めての売り上げに謙三の胸が高鳴る。多分、二軍の野球選手

 が一軍に上がって五試合目にしてやっと出た初ヒットがこんな

 感じなのだろう。
「そうですか。じゃあ喜んでいただきましょうかね。夏子さん。五百円 

 になります」

 

「え、このラーメンが五百円ですか?安すぎませんか?」夏子は驚いた顔で謙三を見つめた。

 

「春子が決めた値段ですから」
「分かりました」
 謙三は出された五百円玉を受け取ると大事そうに腰のポーチに

しまった。
 この五百円玉はただの五百円ではない。仏壇の春子の前に置

かれる特別な五百円玉なのだ。

 

「毎度有難うございます」
「こちらこそ。ご馳走様でした、謙三さん」
「やはり照れますよ」と頭を掻いた謙三に、
「照れた強面のお顔、かわいいですよ」と夏子は茶化す様に言った。
「やめて下さいよ、おじさんからかうのは」
 照れ笑いの謙三と、ころころ笑う夏子の声が星空が覗く夜のしじまに溶け込んで行く。

 

 やがて片付けだした謙三に夏子は幼かった頃や東京に出てきた

頃のことを話し出した。
 時折笑顔を交えて楽しそうに話す夏子は別人とさえ思えるほど

だった。

 

「雨、上がってたんですね」
 夏子は所々雲が切れた夜空を見上げ胸一杯の空気を吸い込む

と静かに吐き出した。

 

 そこへ片付けが終わった謙三が声を掛けた。
「じゃあ、夏子さん。行きましょうかね」
 だが、そう言って引き手に入ろうとした謙三の後ろから夏子が

抱きついた。
「え?」
 驚いて振り向こうとした謙三に夏子が言った。
「謙三さん、お願い。少しだけ、少しだけこうしていてください」

 

 まだ何か抱えているのかもしれないな。
 そう思った謙三は黙って前を見続けた。

 

 やがて夏子は謙三から離れると背をむけ行きましょうと声を

掛けた。

 

 謙三は軽く微笑みながら引き手に入った。
「じゃ、帰りますよ」

 

 だが屋台を引こうとすると突然屋台が軽くなった。謙三は慌てて屋台を止め、後ろに周った。

 

「夏子さん!何してるんですか?」
「お願いです。押させてください。謙三さんと春子さんのラーメンで

 元気になったお礼です」

「しかし…」

「お願いします!」夏子は先程より更に深く頭を下げた。

「夏子さん!」

 少し憮然とした顔をして言った謙三を夏子はすまなさそうに

「はい」と上目遣いで答えた。

 すると謙三は真剣な顔つきで言った。

「私がストップと言ったら直ぐに止める。いいですね!」

 

 夏子は本当に嬉しそうに「はいっ!!」と返事をした。

 

 引き手に戻った謙三が声を掛けた。

「夏子さん。行きますよ」

「はい!謙三さん」

 

 謙三が引くと屋台は僅かな力でぐいと動き出した。

 

 一生懸命に押してくれている夏子の気持ちが伝わって来る。

 

 それが嬉しかった。