春の轍⑦ 3
尾川永児
午後八時五十分。
井の頭公園の駅舎ドアが開き中年の駅員、皆藤が入って来た。
「ご苦労さん。今日は少し冷えるな」そう言いながらタイムカードを
レコーダーに入れた。
「ご苦労様です。昨日が暖かかったから余計感じますね。それに
しても皆藤さんが夜勤とは珍しいですね」中井が答えた。
「来月娘の結婚式でね。休暇を申請したらこの有様だよ」と苦笑い
しながら着替える為に皆藤はロッカールームへ入った。
五分ほどで出て来た皆藤は自分のデスクに座りながら言った。
「そういえば中村君の姿が見えないな」
「中村さんなら皆藤さんと入れ違いで休憩室で食事です」
「そうか。そう言えば券売機の横に屋台のラーメン屋が出てたな。
今日からだったか」
「そうみたいですね。先週、定時連絡で聞いてはいたんですがすっ
かり忘れてまして、さっき挨拶に来てやっと思い出しました」
「今時、屋台のラーメン屋とは珍しいな。俺のガキの頃は流しの
屋台でよく食ったもんだがなー。それにしても夜の乗降客が少な
いこの駅でラーメン屋なんてやっていけるのかな」
皆藤が右肘をデスクに置きあごをさすりながら言うと、中井は腕
を組みのけぞりぎみに答えた。
「厳しいんじゃないですか。今はラーメン戦国時代ですからね。そこ
いら中に美味いラーメン屋がゴロゴロありますよ。自分は吉祥寺
なら武蔵屋か竜王かな。ま、値段にもよるんだろうけどそう長くは
続かないんじゃないですか」
「だろうなー。インスタントでも下手なラーメン屋より美味いご時世
だからな。ま、気が向いたら食ってやるか」
「そん時はゴチしてくださいよ」
「しっかり働いたらな。ほら、下りが来る時間だぞ」
「お、やばいやばい。じゃ、行ってきます」
慌てて駅帽をかぶりながら立ち上がり小走りでドアに向かった
中井に皆藤が声を掛けた。
「慌てるなよ。慌てるとミスがでるぞ」
「はい。了解です」
返事をすると中井は駅舎を出て行った。