春の轍⑥ 3
尾川永児
「お待ちどう様」
まさかのラーメンが謙三の目の前に置かれた。しかもインスタ
ントではないことは謙三にも直ぐに判った。スープが放つ香りが
違っていたからだ。
「これはお前が作ったのか?市販の物じゃないんだろう」
「そうよ。麺は頂き物ですが他は全て私が作りました」そう言いな
がら箸とレンゲを丼に添えた。
ほのかに上がる湯気の中にチャーシュー、シナチク、ねぎがトッ
ピングされたシンプルな醤油ラーメン。謙三はこの香りに近いラー
メン店を知っていた。吉祥寺駅に程近いラーメン専門店、竜王。
謙三夫婦が懇意にしている店だった。
「スープは竜王さんを真似たのか?」
春子は眼を丸くして驚いた表情をした。
「貴方の鼻は本当に凄いわ。そう、基本的な作り方は竜王のしげ
さんに教わったの。しげさんも元々屋台から始めたでしょ。色々
教えてくれたのよ。でも私なりに工夫したんだから。とにかく食べ
てみて」
春子に言われるがまま、謙三は手にしたレンゲでスープをすくい
鼻の下へ運んだ。
(良い香りだ。メインは鶏がら。それに鰹節、僅かだが煮干も使って
いるようだ。後は野菜が数種類てところだろう)
眼を輝かせながらも少し不安げな様子の春子が見守る中、謙三は
スープを口に含んだ。
次の瞬間、謙三の身体に衝撃が走った。今まで味わった事が無い
味だったのだ。
(な、何だこの味は。竜王とは違う…)
謙三は再びスープをすくって口に運んだ。
(俺は刑事という仕事がら、素速く食べられる麺類は評論家に成れそう
なほど食べたが、そんな中で判った事が有る。美味い店と不味い店の
違いだ。それは旨味の質とでも言うのだろうか。高価な食材から作ら
れたスープであっても美味しいと感じないことが有る。それはそれぞれ
の出汁の旨味が融合しきれず、単なる調合になっている場合だ。それ
にくらべ美味い店のスープは出汁の種類が少なくても互いの味を引き
立てあい調和している。だが春子のラーメンはそれとも少し違っている
気がする。方向が違うとでも言うのだろうか)
「どう?」恐る恐る春子が謙三の顔を覗き込んだ。
謙三は春子の問いに答えもせず黙って箸を取ると中太ちじれ麺をす
くい上げ口へと運んだ。するとスープが絡んだ麺の味は更に旨みを増
して喉へと滑り込んだ。
(何て優しい味なのだろう。プロに教わったとは言え、ここまで自分の
味を作り上げるとは。あっさりとした中に旨味と深みが見事に調和し、
躰の中に溶け込んで行くかの様だ。似て非なる物とはこういう事を
言うのだろう。竜王のラーメンは一言で言うとパンチの利いた主張
するラーメンだ。口にした者は何かしらの声を発してしまう。「おっ!」
とか「美味い!」とかだ。だが春子のラーメンは間逆と言っていいだ
ろう。多分、食した者は眼を閉じて黙ってしまうかもしれない。美味し
さに包まれるような味なのだ。パンチが無い分、人によっては大して
美味しくないと言うだろう。だが俺はこんな味のラーメンを食べたこと
が無い。これが春子の味。春子のラーメンなのか)
一気に食べ終えた謙三は僅かに残ったスープをじっと見つめ、ぼそっ
と声を漏らした。
「まずいな・・・」
「え、美味しくなかった…」春子は悲しげな表情を浮かべた。
「いや、そうじゃないんだ。ラーメンは本当に美味しかったよ」
「本当に?本当に美味しかった?」
「俺が嘘をついたことがあるか?」
「でも、不味いって」
謙三は困惑気味な表情で答えた。
「味がって意味じゃない。これだけ美味しいラーメンを作られたら反対
しづらくなったからだよ」
「じゃあ…」
喜びが爆発しそうになった春子を謙三は慌てて右手を突き出して喜
ぶ春子を制した。
「ちょ、ちょっと待った!結論はもう少し考えさせてくれないか」
春子は少し残念そうな顔で答えた。
「わかったわ。確かにそうよね。そんな簡単に返事出来るような事じゃ
ないものね」
「その前に一つだけ訊いていいか?」
「はい」
「警備員の仕事を始める時、何年かしたら二人で色んな所に旅行に行く
予定だったはずだがそれはどうするんだ?屋台を始めるとしたらその
為の貯金を使わざるえないだろう」
「旅行もいいんだけどねー。躰が動く今は二人で屋台をやりたいわ。旅
行はそれからでも出来るから」
「そうか…」謙三は少し残念そうに答えた。
「二人で屋台のラーメン屋をやる。これが今の私の夢だから」そう言いな
がら春子は謙三の湯飲みとラーメンの丼をお盆に乗せ「今、新しいお茶
を入れて来るわね」と楽しそうに部屋を出て行った。まるで遠足を待ちわ
びる幼子ように。
謙三は静けさを取り戻した部屋で時計の音を聞きながら何も映ってい
ないテレビ画面をぼんやり見つめ、たった一つの事だけを考えていた。
本当に屋台のラーメン屋が出来るのだろうかと・・・。