春の轍 ⑥ 2
尾川永児
「屋台の、屋台のラーメン屋をやりたいんです」
穏やかに流れていた時間を止めるには十分過ぎる言葉だった。
飲食店、もしくは客商売でもしていればとんでもない提案では
ないのだろう。だが商売に無縁の夫婦には晴天の霹靂以外の
何物でも無かった。
やがていつもは聞こえない柱時計の音が聞こえる中、謙三は
おもむろに口を開いた。
「私の聞き違えだったらご免。今、屋台のラーメン屋をやりたいと
言ったのか?」
「はい」
「つまり屋台のラーメンを食べたいとかではないんだよな」
「屋台のラーメン屋をあなたと一緒にやりたいんです!お願いします」
そう言うと春子は手をついて頭を下げた。
謙三は黙ったまま頭を下げている春子を見つめながら考えていた。
(還暦を過ぎた元刑事と専業主婦の夫婦が屋台のラーメン屋を始め
るなどと、まるで何処かの番組で観た様な展開だな。それにしても
何故春子は屋台のラーメン屋をやりたいと思ったのだろう?)春子
の提案に驚きはしたがむしろその理由に思考は向かっていた。
「なーんだ、驚かないんだ」少しして顔を上げた春子はいつもと変わら
ぬ謙三の様子を観て少し残念そうな顔をして続けた。
「流石、元捜査一係の刑事よね。どうなることかと緊張して損しちゃっ
たかな。もしかすると怒鳴られるかなって思ってたから」そう言い終え
ると春子はまるで愛の告白を終えた少女の様な安堵と不安の混じった
笑顔を見せた。
それから十数秒後。謙三はやっと口を開いた。
「本気なのか?」
「はい。二人で屋台のラーメン屋をやりたいなって」
ここでも春子の返答に躊躇は無かった。
謙三は無謀としか思えない春子の提案にやや強い口調で言った。
「何を言い出すのかと思えば屋台のラーメン屋などと、まったく
話しにもならん事を」
「そう言われると思っていました。でも私の最初にして最後の
お願いです。本当にやりたいんです」
今まで見たことも無い春子の強い思いに押さた謙三は腕を
組み、口をへの字に曲げ「しかしだなー…」といったまま黙り込
んだ。
(まいったぞこれは。春子に何があったというのだ。それにしても
だ、商売の商の字も知らない自分と、アルバイト経験も無い専業
主婦が屋台のラーメン屋を出来るとは思えんしなー。何て言えば
納得させられるかだが…そうか!根本的な事を忘れてた。だいた
い本格的なラーメンを素人が簡単に作れるはずがないのだ)
謙三は的を得たりと畳み掛けるようにしゃべり始めた。
「よく考えてみろ。今のご時世、ただ屋台でラーメンを売っても客は
来ないぞ。客が美味しいと言ってくれるようなラーメンを作れる
自信があるのか?素人が思いつきだけでやれるほど客商売は
甘くはないんだぞ。ま、少なくても俺を納得させられるようなラー
メンを作れるようになったら考えもするがな」
「そうよね。あなたの言う通りだわ。ちょっと待っててね」と言い
ながら春子はいそいそと部屋を出て行った。
それを見届けた謙三はふーっと息を吐き出し、肩の力を抜いた。
(これで諦めの気持ちが少しでも出てくれればいいんだが…。
それにしてもこの後は何て言えばいいんだ。努力すればいつか
美味しいラーメンが出来るわ、とか、商売は味よりも誠意が重要
なのよ、何て言われたら返す言葉が思いつかないぞ)などと頭を
掻きながら思案していると十分ほどで春子がお盆を手に戻って
来た。
そこには春子の熱い思いが乗っていた・・・。