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謙三の家は若者で賑わうJR吉祥寺駅から十五分程歩いた住宅街に
建っていた。
この辺りは駅周辺の喧騒からは程遠く、人通りの少ない道路に点在する
古いモルタル造りの家が消え行く昭和の面影をひっそりととどめていた。
門扉を閉め外に出た謙三は苦悶している原因の前に立ち、ため息を吐いた。
屋台を引いてラーメンを売る。これが謙三の新しい仕事だった。
(客商売など無縁な俺に本当に出来るのだろうか?)
真新しい屋台を見つめながら自問した言葉に刑事だった頃を思い出させた。
「頑張れば何だって出来る」
詐欺、恐喝、窃盗。道を踏み外した奴等に取調室で言ってきた決まり文句だ。
その時は疑いもせず本当にそう思っていた。
それがどうだ。経験の無い新たな仕事を前にして不安に押し潰されそうな
自分がここに居るのだ。
今なら新しい仕事に二の足を踏む心情が理解出来る。
どんなに簡単な仕事でも必要最低限の経験と知識とほんの少しの自信が
必要なのだと―。
自慢にもならないが俺は刑事以外何もしたことが無い。退職後の警備員の
仕事も誰もいない閑散としたビルの夜警だった。
それは料理も同じだ。台所に立つのは春子が風邪を引いた時ぐらいだが、
あまりの手際のまずさに結局春子は自分で作ってしまったほどだ。
その俺が客にラーメン作る。そう思うだけで、始めて自転車に乗る子供の様に
高鳴った心臓から大量の血液が血管に流れて行くのが分かる。
謙三は頬を膨らませながら息を吐いた。
ついさっき、やるぞと家を出たばかりなのに、もうこのざまだ。
放って置いたら辞める理由を探し出していまいそうな自分に渇を入れるため、
両の頬を平手でサンドイッチにはたいた。
そして頬の痛みが消えないうちに屋台の引き手の中に入ると、体重を引き棒に
預け、今その第一歩を踏み出した。