① 『ここで・・・』
「ここで直哉が転んだのよね」
小諸城址公園。三の門前で小学六年の長男、直哉が小学三年生の妹、
三枝子に追い回され派手に転倒した。もう三十四年も前になる。
「顔から膝まで、派手に擦り剥いてたな」
「血が滲んで来たもんだから、追い回してた三枝子が
びっくりしちゃって立ちすくんでたもの」
私が押す車椅子で、章子は懐かしさに笑みを浮かべ、
あの時の出来事を頁をめくるように楽しんでいた。
そんな章子を観て、私の手に力が入る。
「さ、行くぞ」
「はい」
私の名は鳴瀬新平。歳は七十六才。
妻と二人の子を設け、下町の小さな町工場に
こつこつと七十まで勤めた。
妻、章子は七十四才。安い給料にもかかわらず、文句も言わずに
家事をこなしてくれた。
そして退職し、子供達も独立。
二人でゆっくりと余生をと考えていた矢先だった。
余命三年。
章子が末期ガンと宣告された。
命が尽きると知らされた恐怖と、失う事への悲しみ。
それらが私達夫婦に重く圧し掛かって来ました。
勿論、生きている限り、いつか家族や友人の死に直面することは
分かっていたつもりです。
でも、突然死と言う現実に直面して冷静ではいられませんでした。
「貴方に私の気持ちは、分からないわよ!」
罵声を浴びせられた時もありました。
そんな時、妻と仲がいい三枝子から我が家の現状を聞いていたのでしょう。
直哉がぶらっと家にやって来て。
「今を大切にしてくれよ」そう言って、
悲しそうな顔で帰って行きました。
その通りだと思いましたが、それでも重苦しさは解消出来ませんでした。
その一週間後、東北地方太平洋沖地震が起きたのです。
テレビ画面に映し出された信じがたい惨劇に言葉が出ませんでした。
全てを破壊し、呑み込んで行く津波。
気が付くと互いの手を握り締めていました。
一人の死も、多く死も、失った家族にしてみれば同じ悲しみなのは分かっていても、
想像を絶する自然の驚異に躰が震えたのを覚えています。
これがきっかけだったのでしょう。
三日ほどした朝、章子は昔のように笑顔で朝食を作り、
ご飯を美味しそうに食べながら言ったのです。
「今、生きてるのよね。時間、大切にしないと、怒られちゃうわよね」
嬉しかった。
章子の笑顔が嬉しかった。
「そうだね…」
そう返すだけで精一杯でした。
私の頬を暖かい物が伝って落ちて行くと。
「やだ、貴方ったら…。つられちゃうじゃない…」
章子の眼からも涙が溢れ、頬を濡らしました。
二人で今を大切に生きる。
思い出の場所を巡り、家族で生きてきた時間を歩こう、そう決めたのです。