運命。

私に何を伝えようとしているのか。


癌になりました。

事務のfさん、兄のことで癌のことがわかっていたつもりだった。

癌によって死ぬという事実も。

それに向かっていくという過程が想像を絶するほど辛いということも。

前回の入院で死ぬ間際を体感してわかってたつもりだった。


私は、何にもわかっていなかった。

所詮は他人事だったということ。


万事は経験せねばわからぬということだ。

想像など想像の域を超えることなど無理なのだ。


いつ死ぬかわからない。
虚無感。
常にその恐怖と対峙していなくてはならない怖さ。

これまで何をしてきただろう。

近い将来死ぬまで何ができるだろう。

もしかしたら、明日倒れるかもしれない。

私は社会に何も返せずに何も果たせずに一生を終えてしまうのか。

ただ起き、食べ、眠るだけの人生として一生を終えてしまうのか。


時間が限られているという事実を目の当たりにし、

やはりやりたいことは早めにしておいた方がよいのかもしれないと思った。


生きることは誰かに何かをすること。

弱きを助けること。

義を貫くこと。


それだけは確信している。


いかに客観的に自分の感情と向き合えるか、整理できるか。
それによって、落ち着いて次の判断ができるだろう。

正直告知され気持ちに整理がついていないが、

悩みとどう向き合うべきかどうすることが私にとってよいかコントロールできるか大よそ検討つくようになってきたので、

淡々とこなしていくつもりだ。



今はまだ少し座ったり立ったりするだけでもつらい。

とりあえず寝つつ休みつつ修士論文はかいた。

手直しができなさすぎて出してしまったので、

y先生に申し訳なかったが、

ぼちぼち直していこうと思う。

痛みは続くようである。

縫合の部分は多くの患者が術後の痛みを数年間訴えている。

しかし、多くの医者が痛みを理解していないようだ。

医学は解明されてないことが多い。

私の家は広島でもかなり街中にある。はずである。

しかし何故だか、

街中なのに、


うりぼーが私に突進してきて、家の中に侵入しようとした。


うりぼーはとてもかわいい。

でもわたしは、どうしてもうりぼーを受け入れることができない。


うりぼーを家に入れずに済む方法は何なのか、ずっと考えていた。

ちょっとドアを開けようとすると

その隙に

ささっと入り込んでしまう。


どうしたらよいのだろうか。



もしも、うりぼーが家の中に入ってしまったら、

どう整理してよいのかわからないくらい

ぐっしゃぐしゃになってしまうだろう。


そう考えていると、

目が覚めた。



ここのところ、

ずーっと胸の中に溜まっていたしこりを

今、

自分の手で

探り探りえぐって

出せそうな予感がしている。


もしかしたら、うりぼーはそれを出すのを助けてくれるのかもしれない。

そうだ、

うりぼーは私なんだ。


追い出そうとするのは、過去に囚われすぎて一方向からしか

物事を判断することのできない、

間抜けな

もう一人の自分。


そう、私の好きな洋服のブランド、スピックアンドスパンのお店で

このところ大好きなワンピースの

コーナーばかりをうろうろしているのと同じだ。


ワンピースのコーナーには

たたんであるさらに凝ったデザインのものも

あるかもしれない。

また、インナーに用いる素敵な刺繍の入ったキャミソール

などもあるかもしれないのだ。


ワンピースだけじゃない、オールインワンだってある。

さらに奥には、もっと素敵な洋服があるかもしれない。


私は同じところをぐるぐる廻っていただけだった。



しかも、何よりお店はスピックだけではない。


今、3階まである店の3階から1階まで駆け降り、

出口を出かかっているところだ。



うりぼーが見せてくれようとしている世界は

恐らく私が本当に達成したい、実現したい思いに

最も合致していると思う。



そう思うと、

曇っているのに雨も降らないカラカラな心に

一筋の光が差し込んだような心持になった。


今まで見えていた景色を

少し明るくすることもできよう。



今は、お店の中をもっと落ち着いて見てみよう。

まだ見ぬ素晴らしい洋服があるはずなのだ。


追われるよりも追う立場になったら、

人生を長く生きていくことに初めて安堵した。


何かをやるのに遅すぎることはない。


自分と対峙して考えることも動くことも両方

真剣にやるってやっぱり大事だなっと感じられた。


それにしても、

長かった。


この文章も長いし。

いや、ここでこの想いに気づけて良かった。



今まで様々なことを考えてきた。


そのほとんどは自分への劣等感で、それに対する悩みをひたすら頭の中で反芻して、なんとか打開しようとしていた。


しかし、今思えば悩む自分を特別視して、先を見据えた根本的な解決に向けた行動をしてきたことは非常に少なかったのではないだろうか。

同じところをぐるぐるぐるぐる廻っているだけだ。

Y先生がよく言う、

「考えても仕方がないことなんじゃないの」

というような、

今考えても答えが出ないような、かつ手の打ちようのない事柄を。

ひたすら自分の見える範囲で、しかも部分的でしかない・・・


それが、論文を読むにしろ、データ解析を行うにしろ、何にしろ、私の行動の遅さを生んでいると思う。


若いから悩むもんなんだっていえば、上手く言い訳できるのかもしれない。

けれども、それはとても効率の悪いことで、我々ができる多くのことを今まさにせずに時間を浪費してしまっていることになっているように感じる。


こういうときこそ、Simple is best.である。

こうあったらいいという自分の理想像である尊敬する人々は、シンプルな思考を持っているのだ。

そのことがわかったいたはずなのに、こうやって私は大事なことを忘れる。

目に見えないものほど大事だと思う。


なぜ無駄足を踏むのか。

未来が見えないものだということだけでなく、自分の信念が見えなくなっており、基準がぶれてしまっていることが原因だと思う。

そのために物事の判断が出来なくなっている。


1.何をしたいのか

2.それをどう形にしていくか


という2つの工程において2つ目の段階にいたつもりでいたが、まず1つ目さえも突破してないという致命的な事態に今更気づいたのだ。


それに加えて、「今生かされている」という実感を忘れかけてしまっている。



だから、再び生きる気力を失いつつある。


自分で判断すべきことですら、他人の意見を聞かねばもう自分をどうしようもないという八方塞がりな状況になっていた。

マレーシア渡航にしろ、O社長の件についても。


そのために、多くの人を不快にさせてしまったのだ。

Y先生に言う必要なんて全くなかったのに、

そんな判断すらできなくなっているのか。私は。



自分という人間がいたことによって、何がどうなるのかはわかりません。

だからといって、すぐに黒白はっきりとさせることができるものでもない。

だってそれはみんなそう考えて生きているはずだし、懸命に生きて生き抜いた人にしかわからないようなことを、今の未熟な私に悟れるわけがないのである。

そういう謙虚さを失っていたと思う。


黒と白だけでなくて、グレーもあるし、青も赤もある。

グレーで考える我慢強さが求められている。

それに、本当の意味で”じっくり”考えるということも。


今はっきりしているのは、誰かの力になれることを必ずやると決めた、病床での思いを生涯に渡って実現していこうとするならば、自分がしっかりしなければならないということ。


それには、心も、体も、生きていく術としての技術もバランスよく持たなければならない。

自分を縛るほどのラインではなく、今の等身大の”できない”という自分を認めて、こうなりたいというラインを明確に決めることが必要だ。


こんな私も数日前25を迎えた。

惰性で生きていける年じゃない。いつまでもダダこねてる場合でもない。

きちんと自分をコントロールすることをいい加減覚えないとなぁ。