![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240529/12/ronjanzensin/e2/e8/j/o0810108015444812409.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240529/12/ronjanzensin/81/60/j/o0810108015444812411.jpg?caw=800)
たまたま、中観と唯識のテキストが並びましたから、スピリチュアル・ボケでない方のためにすこし解説をしておきます。
それぞれに行法があるわけですが、中観は主にからだを動かさない静座の行法になります。
唯識は、日本では奈良興福寺に始まり、学問としてだけ学ばれた歴史がありますが、行法としては、どうしてもからだを活発につかわないといけなくなります。
唯識を学んだ名僧は奈良時代に多く、からだを活発に動かして東大寺まで建立したのが行基ですね。学問として国が定めた唯識を否定して、本来の唯識に邁進した名僧です。のちに行基菩薩と呼ばれます。唯識の始まりは三蔵法師(玄奘三蔵)ですから、中国からインドまで歩いていくほど元気です。
かならず、両方を兼ねて実践するもので、交互に反復して行います。
ボーっとして、棚ぼたを待ってるのが、スピぼけですから、わかりやすいですね。
ついでに、中論は古代インドの論理学ですが、多少、理解するには、現代の論理学や数学の帰納法に慣れている必要があります。論理命題で書かれてあります。竜樹の追体験を通して、論理命題を理解する必要があります。ここでも、追体験が先です。
スピリチュアル・ボケというのは、蓋然性の伴わない命題に執着することです。蓋然性のないものを追体験することは、論理的にあり得ません。
で、次に唯識の行法というのは、膨大なエネルギー活動が必要です。これはスピリチュアル・ボケが空想するような神秘的なエネルギーではなくて、具体的現実的な活動ですが一般人にはそのエネルギーははっきできません。
具体的ですから、このエネルギーは、Kcal キロ・カロリーです。人間の食事の量は限度があります。それをはるかに超えると過労で死亡します。ところが、玄奘三蔵や行基の活動はその限度をはるかに超えた活動です。
ですから、そのようなことを実際に表出できないのであれば、スピリチュアル・ボケはただのウソつきということになります。
これは、唯識行には必須の試練です。
千日回峰行を思い浮かべればいいです。常人には不可能です。しかし、唯識の行には必要ですし、現に成し遂げた人たちがいるわけですね。
スピリチュアル・ボケは楽をしてなにか得たいだけのペテン師です。
つまり、毎日一万歩でも歩いているかという具体的なエネルギー量(Kcal)を示しなさいということです。ボケが妄想しそうな神秘的なエネルギーでは、まったくありませんねえ。毎日、一万歩、歩いてるようなエネルギーです。
これは、実際に、気功で足せます。