スピリチュアル・ボケにかかずらわってないで、わたしも勉強しないといけないんですけど、こういう書籍を開いても、当たり前のことが書かれているようにしか感じないので、全然、読む気がしません。
経典に書かれていることは、その書き手が体験したことですから、読むよりも体験したほうが、それこそ、百聞は一見に如かずです。

体験しないで、あることないこと吹聴している者に会ったら、本当の体験と経典の記述をもとに、見破ればいいです。

これが、スピリチュアル・ボケの見分け方。

スピリチュアル・ボケが読んでいるのは、通俗本であって、経典ではありませんから、
スピは、スピ。
私たちは行者ですが、興味本位で、スピが覗きに来るので困るわけですね。

下の二つは、行者必須のトレーニングです。
スピには、関係のないことです。
スピは、スピです。

私たちの生活は、結構、清々しいんですが、
スピというのは、お腐れ様です。
この決定的な一線。




たまたま、中観と唯識のテキストが並びましたから、スピリチュアル・ボケでない方のためにすこし解説をしておきます。

それぞれに行法があるわけですが、中観は主にからだを動かさない静座の行法になります。

唯識は、日本では奈良興福寺に始まり、学問としてだけ学ばれた歴史がありますが、行法としては、どうしてもからだを活発につかわないといけなくなります。

唯識を学んだ名僧は奈良時代に多く、からだを活発に動かして東大寺まで建立したのが行基ですね。学問として国が定めた唯識を否定して、本来の唯識に邁進した名僧です。のちに行基菩薩と呼ばれます。唯識の始まりは三蔵法師(玄奘三蔵)ですから、中国からインドまで歩いていくほど元気です。

かならず、両方を兼ねて実践するもので、交互に反復して行います。


ボーっとして、棚ぼたを待ってるのが、スピぼけですから、わかりやすいですね。


ついでに、中論は古代インドの論理学ですが、多少、理解するには、現代の論理学や数学の帰納法に慣れている必要があります。論理命題で書かれてあります。竜樹の追体験を通して、論理命題を理解する必要があります。ここでも、追体験が先です。


スピリチュアル・ボケというのは、蓋然性の伴わない命題に執着することです。蓋然性のないものを追体験することは、論理的にあり得ません。


で、次に唯識の行法というのは、膨大なエネルギー活動が必要です。これはスピリチュアル・ボケが空想するような神秘的なエネルギーではなくて、具体的現実的な活動ですが一般人にはそのエネルギーははっきできません。

具体的ですから、このエネルギーは、Kcal キロ・カロリーです。人間の食事の量は限度があります。それをはるかに超えると過労で死亡します。ところが、玄奘三蔵や行基の活動はその限度をはるかに超えた活動です。

ですから、そのようなことを実際に表出できないのであれば、スピリチュアル・ボケはただのウソつきということになります。

これは、唯識行には必須の試練です。

千日回峰行を思い浮かべればいいです。常人には不可能です。しかし、唯識の行には必要ですし、現に成し遂げた人たちがいるわけですね。

スピリチュアル・ボケは楽をしてなにか得たいだけのペテン師です。


つまり、毎日一万歩でも歩いているかという具体的なエネルギー量(Kcal)を示しなさいということです。ボケが妄想しそうな神秘的なエネルギーでは、まったくありませんねえ。毎日、一万歩、歩いてるようなエネルギーです。

これは、実際に、気功で足せます。