性命は前のお話で触れました。

性と命。

日本語では、性を"さが"と読むとすこし理解を助けてくれそうです。日本語の音訓の便利な使い方です。


元来、生まれつきに持っているものは変わりにくいですが、よいもののほうが圧倒的に多いです。

天然です。

気功はこの性を磨くことからはじめます。


ところが、天然には生後にいろいろな抑制が強いられます。社会環境からの抑制です。教育も含まれます。価値観も含まれます。

天然は成人するとともに、見る影もなくなってしまいます。子どもの頃の表情や自然なふるまいをそのまま残している人はほとんどいません。


実は、気功の上達にいちばん役に立つのが、この天然だと思います。性です。

子どもの頃には、見るものすべて新鮮だったことを思い出すといいです。成人してしまうと、その新鮮さも薄れていきます。


気功はこれくらい新鮮な感覚を手探りしながら進んでいきます。最初の気感だけなら、鈍感な大人でもすぐに感じますが、そこで大騒ぎします。まだ、探求の旅をはじめたばかりなのに、そこでじっととどまっていたりします。次は、誇大な妄想に耽りはじめます。ますます、天然から遠ざかって、とうとうゾンビのような姿になります。そして、それを気功の成果だと勘違いします。


振り返って、性(天然)と見比べてみると醜い姿になっていますが、見比べることもおしえられません。それどころか、ゾンビ(の気功の先生)が、ゾンビ(の気功の生徒)といっしょになって、ゾンビ世界を楽しんでいます。どちらも、性(天然)を台無しにしてしまいます。

もともとそなわっているものに気がつかないで、なにか足さないと気が済まないらしいです。足して台無しになることは考えませんから、バカです。


本来、気功は老子や荘子を片時もそばから放さないで、天然を守り続けるようにトレーニングしていきますが、中国古典の原文のままに、これを自然(じねん)としておくと、日本人は誤解しつづけます。山芋(じねんじょ・自然芋)ではなくて、天然温泉と理解してください。

中国人も日本語を勉強していても、気がききませんねえ。せめて、自然を自(本来の)然(まま)と教えて上げると、日本人も理解できます。すると、性は、本来の(もとからそなわった)ものだということも理解しやすいですね。


ついでに、指導者用には、先天と後天という用語を使います。これは易の八卦の用語ですが、日本でドイツ観念論哲学が翻訳されたときに、カント哲学のアポリオリとアポステリオリの訳語として使用され、現在に至っています。

ですから、先にカントの純粋理性批判を読んでおくと、気功が理解しやすいですね。アホのスピリチュアルになることもありません。ほんまに、アホやねえ。


アホのスピリチュアルは、純粋理性批判を読んでないからやでえ。って、これは冗談ではなくて、先端的な老子研究はドイツ哲学を使って解釈されています。