少し、私が気功を"習い"はじめた頃のお話をしてみます。


私が、先生のところに伺いはじめた時、当然、周りには何年も気功を習っている方が、先にいました。私は、気功なんて、なにも知りませんから、周りの人たちは、自分よりもなにか知っているものだと考えました。それは当然ですが、私の先生も、気功をはじめた時、同じことを考えたとおっしゃっていました。


ところが、しばらく、先生の許に通ううちに、周りの人たちは、まったく進歩していないことに気がつきます。そのうち、私だけが進歩していることに、みなさん、気がつきはじめました。

どういうこと?


気功を"習う"というのは、お習字を習うのと同じです。先生がお手本を書きますね。生徒はそれを教室で真似して、先生に朱で直してもらいます。

でも、これだけでは、先生のお手本をなぞっているだけです。

書道が上達する人は、お手本をもらったら、自分で何度も書いてみます。何度も繰り返して書くうちに、先生のお手本では、味わえない楽しみを、自分の書の中に見つけます。

優れた先生ですと、自分の味わい(趣き)を見つけたことを誉めてくれるものです。すると、もっと、書道が楽しくなって、どんどん上達します。

これを、私の先生は、"気功を自分のものにする"と表現されていました。


たとえば、白鶴涼翔をします。実は、一つとして、同じ白鶴涼翔はありません。それぞれ、その人の趣きがあって、きれいな白鶴涼翔が出来上がります。自分のものにできた結果です。

つまり、私の気功の"習い方"が正しかったので、周りの人たちより、どんどん進歩していったわけです。


もう一つ、別の側面のお話をします。

こうした進歩しない人たちの間では、世間に流通している気功の通俗本を読んでいる方がいました。超能力などが書かれたオカルト本です。

その末路は、ここで書くには適切でないほど悲惨なものでしたが、練功会では参考のためにお話はしています。

オカルト、やめますか? それとも、人間、やめますか?