大阪大学の佐保田鶴治名誉教授が生前に翻訳されたヨーガ経典の一つです。佐保田先生にしか訳せないものだったと思います。
最初の1ページから、修行もしないで読めば、目で言葉を舐めているだけです。目で'舐める'なんて、最初からおかしいですね。
読むことが、いいことではない時もあります。
昼寝しているほうがいいことだってあります。

たとえば、アートマン(自我)なんていう言葉が出てきます。これを、日本語の自我と解すると、誤ります。現象学で示されるような自我でしたら、まだ近いです。"我それ自体"と訳したほうがいいと思います。
これは、一般的には、"唯識"を指しますが、揄伽行唯識と言います。

気功や密教には、揄伽行派があります。
揄伽(ゆが)は、Yoga ヨーガ の音訳ですから、本来の意味は同じです。わかりやすい例では、少林寺が揄伽行唯識派に分類できます。
日本では、奈良興福寺の法相宗が唯識派ですが、興福寺は大学でしたから、学問として唯識を学んでいました。
この揄伽行唯識派に対するのが、中観派です。
かならず、この二つがあって、どちらかから、修行に入門することになります。仏教、儒教、道教ともに。
だから、孔子は弟子顔回を失った時にたいへんかなしみました。片方が失われたからですが、のちに道教が顔回の意図を復活させます。その印に、麒麟の手印を用いるようになります。孔子が渇望していたものです。麒麟。

中観派と揄伽行唯識派は、人類が発見した恒久的な修行法で、あらゆる修行はこの二つに分類されます。
たとえば、日本の密教では、高野山と比叡山。中国道教では、北宗と南宗。禅宗では、天台止観と少林寺。どれも、この二つから漏れることはありません。
パラミタを含め、リグ・ベーダから脈々と続いています。すべて、ムードラ(印)を共有して、どこに属しているかを指します。