良弁というと、奈良東大寺の造営に貢献した僧として、歴史の教科書で習います。天皇は聖武、皇后は光明の時代です。
聖武がなにを思い立ったのか、ともかく、デカイお寺を作りたい。デカイお寺を作るのは、お金も要れば、人も要ります。
ところが、朝廷には、そんな才覚のある官僚はいませんでした。
そこで、聖武が白羽の矢を立てたのが、京都東山に籠っていた修行僧、金鷲です。金鷲は、国の支援を受けない民間の僧侶(優婆塞)でした。優婆塞といえば、役の優婆塞(役行者)はよく知られていますね。
ともかく、聖武はこの金鷲にそばにいてほしいので、金鷲の願いを聞いてみます。一つは、国の僧侶の官位、もう一つは執金剛神を祀る寺を提供してもらうことです。この執金剛神がのちの東大寺南大門の仁王さん(金剛力士)と思っていただいてもいいです。
金鷲に僧侶の官位を得て、名を良弁と改め、東大寺の初代別当(最高位)に就きます。

大寺院を造営するために大切なのが、まず、勧進。お金を集めることです。一方、東大寺を建造するのに、肝心な人手もありません。ぶっちゃけ、聖武は当時の国民には人気はありませんから、国民も協力しません。
じゃあ、国民に人気のある僧を呼んで来ようというので、官営の仏教に反発していた行基に何度もお願いの使いを出します。
まあ、そんなに頼むんでしたら、やったろかー、というので、行基菩薩がお金も人足もいっぱい集めて、大和にやって来ました。早い話、聖武には、それだけの人望がありませんでした。

京都や大阪では、畿内以外は"地方"と呼びます。東京からいらしても、地方の人ということになります。まあ、仏教も神道も、あんたがたには、わからんでしょうという意味かもしれません。

東大阪の生駒山の中腹に、良弁の墓がありますが、参拝するには少し困難な山道です。