読経用の経本というのと、「読書用の経典」というのは、まったく、別のもの。


まったく、別の用途のものですね。


たとえば、法華経でも、華厳経でも、「読経」用と「読書」用というのは、また、


ちがう用途なわけです。


もっと言えば、最近、「般若心経の本」なんていう解説書が、いろいろ、出版


されてますね。「千の風にのって」の訳詩をした新井満なんかも、一冊書い


てます。まあ、こういうのは、愚かとしか、言いようがないか。哀れに感じます。


読経をする前は、愚かだと思っていました。読経をするようになってからは、


哀れだと思うようになりました。この変化というのは、微妙ですが、すごく重要


な変化だと思いますね。


別段に、解説書というのも、わるいことはない。解説書を書くのも、わるい行為


じゃないですが、私が、書くなら、「読経の仕方の本」を書きますね。


ほんとうに、経を読んで、人が、しあわせになってもらえることを考えるんだった


ら、そうするべきでしょう。


はっきり言いますが、お経を「読書」しても、しあわせにはならない。


お経は、「読経」するから、しあわせになります。


「般若心経」なんて、まあ、一家に一つはあるわけですから、一日に一回でも、


これを読経すればいいわけです。



さあ、私も、理趣経の「読経」です。理趣経の、「読書」は、ずっと、以前にして


ましたね。けど、読経をしてなかった。私も、とんでもない愚かだったわけです。


読経して、はじめて、それに気づくわけですよ。



新井満が読んだら、怒るかねー。怒らしておけ。


愚かというのは、修行すれば、方便せんとだめだということを、知ってないという


ことですよ。元?ミュージシャンでもあるんだからさあ、「全国読経コンサート・


ツアー」でも、やるといい。