日本では、こんなテーマは、まず、理解されないでしょうが、
中国でも、太極拳の宗教的な要素が、かなり削がれてしま
いました。競技太極拳の登場によってですね。
正確にいえば、太極拳の宗教性を、はずしたものが、競技
太極拳ですね。
どういう風にして、それをはずかというと、太極拳の気功要
素をはずしています。
気功の鍛錬なしに、太極拳をするわけです。
こうすると、太極拳から、宗教的要素はなくなります。
本来、太極拳は、道教寺院の修行法として、「掌門」と呼ばれ
ていました。
少林寺にも、いろんな修行門があるように、道教寺院にも、
太極拳による修行門があります。
密教における感応性と、太極拳による感応性は、おなじといって
いいでしょう。
太極拳による感応性は、密教の蓮華部に至ります。
まずは、そこまでは、たしかに言える事です。
仏部まで至るか、それは、わからないですね。
道教の修法が、完全には、日本にないからなんです。
つまり、メソードがありません。
しかし、天部までは、日本に伝えられている修行法で、到達できる
ものでしょう。
密教でも、天部のみでは、非常に、不安定なものになります。
これは、たいへん、困ったことを引き起こします。
天部を統制するものが、ないと、たいへんに困るんですね。
ですから、大日如来の修法で、つまり、金剛頂経から統制するという
システムになっています。
トップから、統制しないと、天部や明王部、蓮華部が、適切にはたらか
ないんです。
おなじことは、道教でも、言えるわけですが、
道教の経典である「道蔵」をそろえることは、できます。
しかし、「次第」にあたるものが、日本には、ありません。
修行をおこなうための、組み立ての作法です。
その作法が、日本に、せめてあるのが、気功なんですね。
まだ、伝えられていない部分が、たくさんあるわけです。
道教の太極拳は、たいへんな力を発揮するものです。
中国でも、おそれられています。
単なる、想像されるような「発けい」の域では、ありませんね。
なにやら、テレビの番組で、気で人を飛ばしたりしますね。
そんなものでは、ありません。もっと、おそろしいです。
ですから、ほんとうに、太極拳の威力を知っている方々は、
それを、口にしないようにされています。
少林寺でも、気功の鍛錬は、当然します。
道教寺院での、気功の鍛錬と、根本的に違う点は、
「入静」(にゅうちん)をしないことです。
かわりに、座禅をします。
座禅は、加持力を定着させる修行法です。
単なる精神修養では、ありません。
加持力というのは、菩薩や仏の威力ですね。
経典には、そう説明されています。そのとおりです。
道教では、見かけは、座禅のようですが、まったく、ちがった
意識状態を作り出します。「変成意識」ですね。
しかし、これは、密教の修行においても、生まれるものです。
おなじ変成意識か、というと、密教の場合は、さらに、深く強い
でしょう。
それは、日本に、修法の次第があるからです。
もし、道教の修法の次第が、日本にあれば、
密教とおなじところまで、行を深めるものでしょう。
あるいは、密教が、その次第かもしれません。
この最後の文句は、たいへん、重要です。
前もお話しました。全真道教は、契印をつかいます。
九字は、本来、道教の術です。
呪文には、道教の呪文が含まれています。
道教の座禅にも、実は、法界定印をつかいます。
如来蔵なんです。それ以外には、ありません。
つまり、密教も、道教も、いたるところは、如来蔵なんです。
如来の加持力以上のものは、ありませんね。
さて、太極拳も、そこまで、練り上げられるでしょうか。
たいへん、困るのは、密教とちがって、次第がないことで、
安定性を損なうおそれがあることです。
たいへん、おそろしい次元まで、行きます。
太極拳というものは、実は、そういうものです。