基本、中国医学では、「証」のタイプというのは、生まれながら、


あまり、変わるものではないと考えてかかりますね。


根本には、やっぱり、先天的なものが、ベースというのが、人そ


れぞれにありますが、「虚実」というのは、日ごとにも、変化して


いますね。そんなところを、中医学では、「弁証」で見ていきます


ね。「乾坤流転」です。



「証」は、「実証」「中間証」「虚証」のタイプ。

「虚実」は、陰陽の虚実です。



「証」のタイプという、かなり恒常的な性質と、「虚実」という、かなり


変化に富んだものが、毎日、組み合わさっているわけですね。



季節が変わって、衣服も、変えますね。今なら、寒いから、たくさん


着込んだりする。あったかい鍋を、食べますね。食材も、旬によって


ちがってくる。


これを、うまく、組み合わせていくのが、伝統的な養生法の基本です


ね。



ここで、道儒というのは、「太極」というものを、中心に置くわけですが、


これは、医学でいう心身と自然の中に、ともに、動かないものがある


というわけです。北極星で、象徴したりします。



すると、まったく恒常的なものと、かなり恒常的なものと、かなり変化す


るもの。三つに、大雑把に、分けることができますね。


この間の調整を、毎日のように、実は、やっていることになります。



つぎに、年齢を重ねると、さらに、これに、ちがった観点を持ち込まないと


いけなくなります。たとえば、十二支でもいいです。


今年のえとは、巳ですが、十二年前の巳年の心身とは、大分、ちがいま


すね。思い浮かべてみると、よくわかります。



十二年も経てば、精気も、減退します。


先天の精ですね。


男性でも、女性でも、老化するということです。


すると、減退した精気にあわせるように、今度は、陰陽をととのえないといけ


なくなります。


これは、身体の根本のところですから、どうしても、これにしたがわないとい


けません。この「どうしても」というところが、重要ですね。


「元精」といいますが、これは、最初、与えられたら、動かすことのできないも


のですね。


動かせない。それにもとづいて、陰陽を調整していくしかないですね。



なにを、言おうとしているかというと、


現代のホリスティック医学でも、まるで、古代道教の不老長寿の観念に、とり


憑かれているということです。


私は、結論を、急ぐ人なもんで、先に、こんな主張をしてしまいますが、・・・。



なぜ、こんなことを言うかというと、


どうも、逆のことをしていると、思われるからですよ。


はしゃぎまわっている。これでは、反動が、来ますね。



伝統的な養生論を、じっくり、見直してみたほうがいい。貝原益軒でもいいですよ。


そうじゃないはずだ。



まあまあ、こんなように考えると、世間の死生観とはもとより、ちがいますが、世間の


医学の死生観とも、ちがうところに出てきますね。


儒教は、かならず、社会とか国家を相手にしてきた宗教です。こわい宗教です。


だから、儒教の死生観があるとすれば、社会や国家なしには、ないわけですね。


ということは、東洋医学であれ、西洋医学であれ、医学は活用するけれども、単純な


医学の死生観ではないですね。


それが、形になったのが、一つに、陽明学でしょうかね。



そこで、もっと、太極を見てみましょう。


社会全体からすると、易の「后」ですよ。陰に引っ張られている。


陰が、リードしている。陰が、盛んというより、強力なときですね。


こういうとき、陽は、じっと、している。警戒しながら。忍耐しているのがいい。


この后というのは、先鋭化すると、実に、やっかいなものです。


儒教は、これも、うまくつかう。ここが、儒教のこわいところです。


なにを待っているかというと。天理ですね。


どうなるかと、易は言っているかというと。隕石が落ちてくる。


ハルマゲドンみたいなことを、言ってるんじゃないですよ。


突然、陰陽が、逆転する。


陰の側から見れば、先鋭化していた陰は、たいへんなことになる。


もう起こっている。


気がついてない。それは、そうです。だれでも、その盛りには、気づかない。


易では、陰を小とする。陽を大とする。


今度は、小が、大に会わないといけない。どうしても、会わないといけなくなる。


その方向に、そろってきましたね。


大体に。易は、風俗の占いではないですね。



たとえば、第一次阿部内閣では、下痢してましたね。


第二次阿部内閣では、下痢しないと思いますよ。


これが、医学的な見解なら、慢性腸炎が治ったんだろうで、終わりでしょう。


しかし、一国の宰相ですよ。国家というのは、古代から、かわってないですよ。


かわってないというのは、「乾坤」の中で、かわるわけのものではないということ。


人間の心身の性質が、かわらないとなおじ意味で、かわってないですね。


下痢と国家との関係は、そりゃ、わたしら直感しないでいられないですよ。


社会の陰が強くなるというのは、身体では、逆に、陰虚になるでしょう。


これは、外と内が、逆転して、現れる不思議な原理ですね。


陰の食物が、からだに入ると、陽を盛んにする。


外の陰気が実だと、内の陰気は虚になる。

アンバラスの中間にあらわれるのが、「邪」ですが、太極をもどせば、これは、


吹き飛びます。


そういうことを、するのが、政治なんですね。本来。


だから、儒教は、政治をとやかく言う。


おなじ原理で、道家は、心身について実践するわけですが、儒教とおなじ原理を


共有していわけですね。


仏教も、実は、おなじ原理をつかって、実践する。


まあ、禅宗は、そうして、宋の時代まで、練り上げたもんですね。



達磨の「二入四行論」にも、小節のおわりに、老子の文句がよく出てきます。


達磨が、老子を採り入れていたということですね。中国での方便です。


そして、如来禅だといいますね。そう提唱しました。


おなじ原理の中心なんですよ。


なにを通して?まあ、ひとつは般若を通して。


「四行」の最初は、なんですかねえ。こりゃねえ。言葉のとおりでしょ。



「般若」の面は、こわいでしょ。


世阿弥を思い浮かべてみないといけない。ついでに、夢窓国師も、思い浮かべて


みましょ。


いかにも、陰を深めたような表情ですね。般若というのは。


どっこい、これは、こわい智恵かもしれません。



まだ、このあたりまで来ても、ムズムズしたものが、残ってますね。


般若理趣経の百字真言を、思い出して、読んでみました。


すーっと、通りましたね。


こういうことは、説明がつかないですね。



今日は、大阪も、外は、小春日和なんですが、


小春が、家の中まで、入ってきたような、気持ちよさですね。

やっぱり、先生のいわれたとおり、理趣経を、しっかり、しないといけない


わけです。