これも、七千遍をすぎたころから、たいへんに、きつい行に


なりました。八千遍では、とんでもなく、状態ですね。


「般若」です。能面の般若状態。


いや、その苦しさというのが、また。他の真言とちがって、


ほとんど、泣けてくるというか、そんな状態ですね。


どうして、「般若」の面が、あんななのか。わかるようですね。


あんな表情の面に、「般若」なんて、名前をつけるのか。です。


九千遍になると、ようやく、楽になり、最後の千遍は、嘘のよ


うに楽でした。



晩方には、明王部の真言行にはいりました。


これも、むしろ、おなじみになってきた軍茶利明王です。


まず、千遍。


結界にも、つかう真言です。


歓喜天使呪法でも、挿入しますね。


行後は、非常に、清涼感のある真言です。


あまり、明王的なはげしさは、感じられませんが、また、一座の


後半になると、どうなるか、わからないものですね。



どんな真言も、一座の後半が、たいへんです。


これは、苦行だといっても、まったく、差し支えありませんね。


まあ、ときに、限界ぎりぎりを感じます。


これでも、真言行では、序の口なんですから、上には上があります。


まだまだ、軟弱な部類です。



妙吉祥菩薩真言でも、三十座、三十万遍くらいやるもんでしょう。


大日如来の真言行は、まず、十万遍が、宿題です。


先生から、宿題の紙、いただいてます。


十万遍って、書いてあります。


老師のいうことには、絶対、服従です。これは、鉄則ですね。


とかいっても、ときどき、次第を、いい加減してますね。


よろしくないです。


不宜。



おもしろいのが、こういう行をしている途中で、


自他というものが、なくなってきます。


自分のためにしているのか、人のためにしているか、


そういう区別が、なくなることに、気づきますね。


いわゆる、無差別智ですね。


こういうことも、行の中でしか、ほんとうには、わからないものだと


思いますね。


経文の言葉で、わかるものじゃないですね。

最後は、座禅です。


清涼ですが、金剛薩堆ですか。前に、堅いつぼみの蓮華が置いてある。


まだ、こんなだぞー。ってなもんですね。ふふん。って感じですね。


午後十一時半。了。