映画「八甲田山」感想 | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

2月7日、BS12で映画「八甲田山」が放送されてました。興味があったので早速みました。

原作 新田次郎『八甲田山死の彷徨』

監督 森谷司郎

俳優 高倉健 北大路欣也 加山雄三

1977年 東宝映画 169分

内容(Movie Walkerより)

「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田と弘前第三十一連隊の徳島は全身を硬直させた。

日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。

二人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。

年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。

一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。

神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。

一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。

耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。

しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた。神田隊は次第にその人数が減りだし、辛うじて命を保った者は五十名でしかなかった。

しかし、この残った者に対しても雪はとどめなく襲った。神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢いたいと思った。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。

天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。

徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。

全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことで神田隊の救助隊に救われた。第五連隊の生存者は山田少佐以下十二名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死。」とあります。

そもそも、なぜ、「八甲田山雪中行軍」が必要かというと、日露戦争が始まったら津軽海峡、陸奥湾封鎖が想定され、青森と弘前間が八甲田山の縦断を余儀なくされる。その時が冬場であるという想定ならば経験のない雪中行軍の訓練が必要だという事のようです。

しかし、青森第5連隊は雪中訓練途中で遭難し参加者210名中生存者12名という、近年の登山史における最大級の山岳遭難事故になりました。

原因は、まれにみる悪天候、指揮命令系統の乱れ、案内人不在、脆弱な装備、極端な情報不足、雪山に対する認識不足などがあげられます。

やはり、遭難の一番大きな原因は、青森第5連隊が、神田大尉のもとで動くべきところ、上司の山田少佐が指揮権をとり、間違った方向に動き出したところにあり、それを訂正できなかった点にあると思いました。

間違った指示のもと、バタバタと死んでいきます。青森第5連隊が全滅していく有様は、無事帰営した弘前第31連隊との比較して描かれており上に立つ指導者によりこんなに違うのかと思い知らされました。それにしても、猛吹雪の中の行軍の撮影は、ほんとうに大変だったようで凍傷にかかった俳優もいるそうです。

そのリアルさのおかげか大ヒットしました。確かに迫力満点でした。

最後までご覧になりありがとうございます。

 

 

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