神威岬(積丹)の女人禁制の解除 | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

日曜日の北海道新聞で「時を訪ねて」という特集があります。

今回は、1855年の「神威岬(積丹)の女人禁制の解除」でした。

興味がありましたのでブログで取り上げました。

いつも神威岬に行くと気になってはいました。

看板です。

岬方面を上っていくと何か門のようなものがあります、

神威岬の800m手前に設置された「女人禁制の門」です。

女人禁制の地 神威岬とあります。

町が禁制の歴史を示すために、1995年に設置しました。

800m下っていくと神威岬です。

積丹町神威岬は、暗礁が多いため海難が起きやすく「魔の海」と恐れられていました。

地図にありますように神威岬の上に神威岩があります。その岩にまつわるアイヌ民族の娘チャランカの悲恋の伝説があります。以下がそうです。

「義経は、1189年、奥州平泉で死んだとされていますが、実は、生き延びており積丹半島の神威岬から大陸を目指します。

そんな義経に強く想いを寄せるアイヌの娘「チャレンカ」がいました。義経を追い神威岬までたどり着いたチャレンカですが、すでに義経を乗せた船は出帆後で、悲嘆にくれたチャレンカは、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」との言葉を残し海に身を投じてしまいました。そして、その身体はやがて岩と化し神威岩となり、以来女性を乗せた船が通ると必ず転覆し、神威岬は女人禁制となってしまったのです。」

神威岩です。

女人禁制をめぐっては、小樽市オタモイ海岸で悲劇も語り継がれています。

「禁制解除前の江戸後期、越中の娘が、忍路漁場に渡った恋人に会うため積み荷に隠れて北前線で北上し、船が神威岬沖で大荒れになった際、船倉から飛び出してきて「この嵐は、禁制を犯した私のせい」と言って海に飛び込み、その後、身ごもった遺体がオタモイ海岸に打ち上げられました。

忍路場所を経営する西川家側が娘を憐れみ、海難犠牲者を弔うために建てたオタモイ地蔵尊で供養したとされています。

オタモイ地蔵尊です。

女人禁制は、幾多の悲哀話や悲劇を生みだしてきました。

幕府は、松前藩から蝦夷地を直轄化し、1855年、女人禁制を解きました。そして、翌年、函館奉行所の役人、梨本弥五郎が妻を連れて宗谷への赴任のため神威岬沖を通過します。

「私は、征夷大将軍の命を受けて岬を通るのに、どうして神罰を受けなければならないのか。」と言って

銃を一発放ったという。その銃声が迷信を打ち砕く結果となりました。

その1855年が女人禁制を解いた年だという事です。

禁制解除後、神威岬の奥では、ニシンの漁場開発が広がり集落形成が急速に進んだそうです。

最後までご覧になりありがとうございます。

積丹半島の動画を作っています。

よろしかったらご覧ください。後半に神威岬が出てきます。

ウニは、6月から8月31日までが解禁です。今行っても食べれません。

 

 

 

 

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