高橋竹山「津軽三味線一人旅」について | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

1月22日、北海道新聞の「本と旅する」のページで高橋竹山著「津軽三味線一人旅」が

紹介されていました。

高橋竹山について調べてみました。

「津軽三味線一人旅」は、三味線奏者の高橋竹山が半生を語り下した自伝です。

幼少期に麻疹をこじらせてほぼ視力を失った竹山は、15才の時、師匠に連れられて

「門付け」の旅に出ました。「門付け」とは、家々の軒先で歌や三味線を聞かせ、

わずかなお米やお金をもらう、つらい旅でしたが、病気で半失明し、他に

命をつなぐ道はなかったのでした。

女性では、新潟県を中心に北陸地方などを 転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、「門付け」巡業を主として生業とした旅芸人を瞽女(ごぜ).とよんでいました。

演歌歌手藤圭子の母が瞽女でした。.

竹山は、16才で独立し、以後は、一人で旅を続けました。旅で、北海道の炭鉱、

漁場に出かけたのは津軽からの出稼ぎが多く、津軽民謡が喜ばれたためです。

「門付け」の旅を続けた後に、津軽民謡の大家・成田雲竹と出会い、伴奏者として開花

していきます。一度だけ、三味線の世界から身を引いた時期がありました。

太平洋戦争激化で三味線では生活が支えることが難しくなり、昭和19年、鍼灸師とマッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖学校に入学した時です。その後、昭和25年、上記の津軽民謡の大家・成田雲竹と出会うことになります。

10年以上も続いた「門付け」の旅の中で、さげすまれて、侮辱、冷たい仕打ちも

受けますが、一方で貧しくても優しくて親切な人もいたようです。

高橋竹山は、一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者であります。演歌歌手北島三郎が歌った「風雪流れ旅」のモデルでもあります。

高橋竹山「津軽三味線」↓

北島三郎「風雪流れ旅」↓

最後までご覧になりありがとうございます。

 

 

 

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